そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

復活しますか?

 Twitterをひと通り動かし、Facebookを片足だけ突っ込んで、それでも結局はてなに帰ってくる。なんとなくここが一番落ち着くのか。多分自分のペースで自分の書きたいだけ書けることが何よりなのだろう。


 Twitter時代には何よりも、自分の書きたいこと、ネタがたまらなかった。140字貯まる前にそれが全部流れているのだから、たまるはずもない。それで今に至る。しかし、ここ最近の私の薄弱化は目に余るものがあるし、どんどんダメ人間になっていくのがわかる。ここらで少し見つめなおすべきだろう。


 友人がボケっとしてる頃、彼女さんに何を頑張っているのか尋ねられたことがあったそうだが、人からサボっていることがわかるようになってしまった昨今の僕はもっとひどい。と思うつれづれ。


 ふと気づけば、もう就活時代から2年近くなる。いよいよ忘れそうだ。まずい、続きを書くのか。書けるのか。もうどうなることやら。

就職活動、終了です(その九)

 6月は辛かった。という一言で始まるぐらい6月は大変な時期だった。本番まであと三週間、前回の記事で経済が得意分野、憲法民法が固め終わったと言っても、試験範囲全体から言えば、まだ半分程度である。したがって、残りの半分を固めなければならない。しかも、ここでいう固め終わったとは「完璧です!」というわけではなく、「まあ、本番で足は引っ張らない程度にはなったよね……」というレベルであったし、少なくとも他の教科もこれぐらいにする必要があった。


 6月の試験は国家II種(現・国家一般職)とS県の一次試験が控えていた。いまさらながら試験範囲を整理しておくと次のようになる。

国家II種
<第1次試験>
・教養試験(択一式):公務員として必要な一般的な知識及び知能についての筆記試験。出題数は55題、うち25題(文章理解[8]、判断推理[9]、数的推理[5]、資料解釈[3])は必須とし、残りの30題(自然、人文、社会各[10])から20題を選択。

・論文試験(小論文):一般的な行政に携わる者として必要な文章による表現力、課題に関する理解力などについての短い論文による筆記試験。1題。図や表が与えられており、それについて分析・解答してゆく資料読解方式の小論文。1000字程度。

・専門試験(択一式):下記16科目(各5題ずつ計80題)のうち8科目(40題)選択
政治学行政学憲法行政法民法(総則及び物権)、民法(債権、親族及び相続)、ミクロ経済学マクロ経済学、財政学・経済事情、経営学、国際関係、社会学、心理学、教育学、英語(基礎)、英語(一般)

S県
教養試験:公務員として必要な社会、人文および自然の各科学、現代の社会に関する知識(知識分野)ならびに文章理解、判断推理、数的推理、資料解釈等に関する能力(知能分野)についての筆記試験(大学卒業程度)45問出題中、知能分野20問を必須解答、知識分野25問の中から20問を選択解答とします。
専門試験各試験区分に応じて必要な専門的知識および能力についての筆記試験(大学卒業程度)40問出題、全問必須解答とします。:政治学行政学憲法行政法民法、刑法、労働法、経済学、経営学、財政学、社会政策、国際関係
この他論文試験は二次試験で。


 これを見るかぎり、まだ足りてないことが明らかだろう。国家II種の方はまだ「憲法民法×2・経済学×2」である程度は行けそうだったが、S県の方はすべて解答が必要で、範囲が全然足りないことは明らかだった。とはいえ、やるしかない。


 国家II種試験のほうが先になるので、そちらの対策をより先にする必要がある。ここで考えたことは、残りの3つをどの分野で解答するかということであった。この時に必要な選択は、短時間で、かつ6割(3問)が確実に取れそうな物を選ぶか、にかかっている。そのためには「範囲が狭い・今まで勉強したところや記憶とかぶっている所が多い」などの印象しか手がかりがなかった。最終的に「行政法行政学経営学」という割りとつながりのある3教科を選ぶことにした。まあ、王道といえば王道といえよう。

実は、最終的に私は行政法経営学社会学の解答を行なっている。理由はそのほうがよくわかったからである。


 とはいえ、予断を許さない。

就職活動、終了です。(その八)

 5月某日。私は京都大学へ向かった。無論、試験を受けるためである。勝手知ったるかのように裏から入り、そしてどの教室で受ければいいのかと迷い、結局正面へ回るというミスをやってしまったのだが、それにしても、なんと受験者の多いことかと思った。案じたとおり、7000人弱の1/3(試験は阪大・神大でもやっていた)=2300人が会場に来ているのだから、当然といえば当然だが、私はまさかこんなにたくさんの受験者がいるとは思っていなかったので、本当にびっくりしてしまった。
 面食らいながらも教室へ向かう。さすがに全員真剣で、スーツを着てきている者も3割程度いた。パッと見の印象だが、新卒じゃなさそうな顔の人も結構いて、1:1ぐらいの割合て混じっていたように思う。


 試験は10時からだったが、9時半の時点で問題が配られ、9時40分ぐらいにはもう説明も終わってしまった。実はここからの20分が試験の中で最もつらい時間だった。シーンと静かな教室に、ピーンと張り詰めた空気。否応なしに高まる緊張感が、実に苦痛だった。もちろん、なにか変な行動をすれば不正行為とみなされるし、かといってぼーっとするにはシチュエーションが悪すぎる。早くこの時間が終わればいいのにとただひたすら耐える20分。ようやくチャイムがなって試験が始まっても、頭が固まっていて全く試験に入っていけなかった。


 2分ほどして、ようやくスタートさせた。まずは得意分野の算数からスタート。

試験のテクニックの1つとして、一番得意な分野から始めたり、一番時間のかからない分野から始めたり、逆に苦手な分野、時間のかかる分野から始めるという作戦は、ぜひおすすめする。勢いをつけるために得意分野をやるもよし、時間をかけてゆっくり考えたいから苦手な分野から始めるもよし、とにかく自分のテストの型を作って、それにテストを合わせる形で解いていくと、自分なりに落ち着けるものだ。

 苦手な英語以外は2回見なおしして、憲法の1〜2問以外は全く不安がなかったから、まあ大丈夫だろうと思いながら、残り15分。ぶっつけだったが、なかなかいい練習になった。


 帰宅して早速試験対策の続き。何とか5月中に憲法民法は固め終わり、経済学は得意分野と自負できるぐらいの力は身につけた。

こんなのんびりした対策が許されるのも、国II(国家一般職)や県庁の試験が遅いからである。国I(国家総合職)や都庁ははるか前に終わっており、こんなペースじゃ絶対間に合わない。

 残る行政法と各種学論であるが、結論から先に言うと、行政法こそ何とかなったものの、各種学論は経営学こそまともになったが、政治学行政学は結局終わらなかった。間に合わなかった。


 6月もこんな調子で、ただ、何とか教養試験で逃げて専門試験で互角というレベルまでは高めていけた。

就職活動、終了です。(その七)

 ほぼ1年ぶりの執筆。今年も就職活動の時期だなと思って、ふと自分の活動のことを振り返ろうとすると、なんと記録が途中で終わっていたことに気づいた。これはまずい、すまんすまんと思いながら、ちょうどいい機会だし、忘れていることも多々あるが、もう一度書いてみるか、と筆をとる。


 これまでの話はこちらから→http://d.hatena.ne.jp/kyoto117/20100714
 前回→http://d.hatena.ne.jp/kyoto117/20100916


 講義答練を続けながら思ったことは、講義だけを聞いてもほとんど身につかないのだな、ということであった。自分で考える事、思い出すこと、反復することのほうがはるかに必要だということ。そうでもしないと覚えないし、ましてやテストでは発揮することができないのだ、ということである。
 したがって、講義を聞いている間にわからないことがあっても、完璧に理解するよりかは、次へ進んでしまったほうがいいとなる。そういった抜けは講義答練の間になんとかなっていくもので、先に憂いを感じても仕方がない。


 とはいえ、この時期が一番焦った。試験まで1ヶ月を切っているにもかかわらず、どの分野もぼろぼろだった。憲法民法行政法・ミクロ・マクロ経済学・各種学論と、最後までひと通り答えられる分野はなかった。

ちなみに、この時の一日の理想のスケジュールはこちら。
午前:6時前に起床。コーヒーを淹れて机に向かう。経済学を2ターム(約4時間)やって家の片付けをする。その間にちょくちょくBlog書いたり、Twitter更新したり。
午後:13時〜14時から3ターム。法律(憲法民法行政法)が2タームと学論(政治学行政学等)が1ターム。でも、途中で晩御飯の用意などを初めて途中で終わる。

 こういう風に書くとずいぶん勉強しているように見えるが、このようにに過ごせた日は多分10日もなかった。大学は週1〜2で行っていたし、バイトしたり、趣味活動をしたり、SS読んだりして、遅々として進んでいなかった。とはいえ、一日全部が潰れることもなくて、午前だけとか午後だけとかはこのスケジューリングに則っていたと思う。


 さて、そうこうしているうちに、国立大学法人の試験が迫っていた。そのため、私は金曜に京都へ帰り、土曜の試験に備えた。この国立大学法人の試験について、詳しくは国大協のHPを見てもらいたいのだが、簡単に言うと、H16に国立大学と諸機関が法人化されて以降、採用は各機関の独自裁量で行わることとなったが、統一の一次試験が今でも設けられている。この一次試験を突破すると、各機関への採用資格が得られることになる。
 国立大学法人の中にも地元で働ける機関はあったし、試験である程度受験者は淘汰されるし、試験対策も特別なことを始める必要がないから、と気楽な気持ちで願書を提出していた。

実は、試験前日に深夜の勤務を入れてしまっていて、しかも勤務を優先させて試験を蹴ろうとしていた。結果的に後輩に勤務を変わってもらうことができたので、試験を受けに行くことになったが、今から思うと、ものすごく意味のある変更だったのは間違いない


 国立大学法人の試験はいわゆる一般教養だけである。したがって、国家公務員試験や県庁試験と分野が同じであり、案じたとおり特別なことを始める必要はない。しかし、教養試験だけということで、国家公務員ほどのしっかりとした対策が必要でないことから、それだけ志望者が多くもなる。

例えば、私が受けた試験では関西地区だけで6,800人の受験者がいた。今年は7,400人の受験生と、着実に増えている。

 そして、受験者が多いと当然合格のレベルも上がる。倍率が7.1倍ということだから、概ねボーダーが80%超、とも言われている。一般的な国家公務員の合格レベルが教養7割・専門6割と言われているから、いかにミスを少なくするか、それにかかっているといえよう。


 そして、5月のとある土曜日。私は受験会場である京都大学へ向かった。

中にはいい言葉もたくさんあります。

・#いまの就活を知ってください とか言うのを見ると案の定文句ばかり。「なんで」とか「わからない」とか言ってるだけで、その理由を考えようとしていない。結局、自分起点の視点しか持っていないんだろうね。

・→このタグ見てたら不安を煽る諸就活ビジネスに上手い具合に誘導されて後悔してる人のtweetがあって、結局就活も情弱が痛い目に遭うのだなと思った。

・受験勉強などと違って成果が数値化されないから、どこまで頑張ればいいかわからない。内定が取れるまで際限なく頑張らなければならない切迫感に襲われる。どう頑張れば確実に目標に到達できるかもわからないまま、奔走するしかない。

・このタグに書き込まれている愚痴や弱音に「現実を見ろ」と言う人こそ、現実から目を背けたいだけなんじゃないのか。

・成功した奴より失敗した人の話のほうがためになる。でも多くははそれを認めようとしない。

・面接した時に言われたキツイ言葉。「君に興味はないよ(笑顔ってか笑い声が漏れてる)」 後々聞いてみたら、良い高校・大学から良い人材を拾ってたから、何も取り柄がない私はいらなかったようだ。これから始める人へ。めげたら一回立ち止まるのも手。

・みんなー!このタグで不幸自慢大会がやってるよー!

・俺は自分のESに「猫5匹飼ってます」って書いたら面接官が「君かー!」ってすげぇ食いつきを見せ、その後とんとん拍子に面接クリアして入社。やっぱインパクトが大事かと。

・ちらほらこのタグで「就活生は甘えている」という意見を読む。いいことだ。どーせなら本音でぶつかり合えばいい。採用試験時の企業内のディスカッションでやるような建前のぶつけ合いよりかはよっぽど生産的だし、内定はもらえなくてもこれからの人生の役には立つ

・いかに高学歴でも「人の話を聞く」「わかりやすく話す」「不明な点は質問する」など、基本的な事が出来ない人ばかりです。


 というわけで、キリがないですが、こんなふうに託つだけではダメだよね、というふうに考えている方も多くいて、私もこれには大賛成。嫌になることはいくらでもあることはあるとは思うのだけれど、そして愚痴も言いたくなるだろうけど、ぜひ我慢してやってもらいたいと思うのです。報われないないのは当たり前ー、だって相手も人間だもの。
 ただ、報われないってつらいよね……しかし、いつかどこかで報われる。ひょっとしたら就活の間では報われないかもしれない。でも、その真剣に歩いた足と得た情報は、きっと何かの役には立っていることは間違い無いと思います。


 もう一度言います。大切なものは「運・カン・誠意」これだけです。私はそう思います。

なぜ今の就活はひどいのか

 Twitterより。

#いまの就活を知ってください が酷い。こんな酷い罵詈雑言と愚痴しか言えない奴らの集まりが、今の就活の一グループであるという事実は、今の就活の醜悪ぶりを知らしめる、いい晒し。もちろん、こんなどうしようも無い奴らだけじゃない。というのは強く言っておこう。十把一絡げにされては困る。

 人によっては愕然としたかもしれないし、「こんなひどい事を言う人だと思わなかった」という人もいるだろうと思う。「あーあ、やっぱり社畜になったら性格変わるんだな」とも思われたかもしれない。


 しかし、撤回するつもりはない。


 私は、就活と一生懸命向き合う人は心から支援したいと思う。それこそ、ESとかSPI攻略法とか、何かの役に立てることなら、全力でお手伝いしたいと思っている。何より私が、就職活動の中で色々な経験を積んだし、世間知らずなところ、人の思いに応えることなど、いろいろ矯正された。はっきり言って、就職活動を始めた頃の気持ちでは、とても今の会社で働くことなど出来なかっただろう。それだけ、私は変わることを余儀なくされ、またそれに応えてきた。始めはESの字は汚かったし、格好もだらしがなかった。こんな状態では、誰が評価できるというのだろう……否、とてもちゃんとした人には見えない。

 例えば

真夏の糞暑い盛りにも上着とネクタイの着用は必須

あと今年夏は、冷房の温度高めのところが多くて、結構半袖で来てもいいって書いてあったけど、みんな変わらず黒スーツなのがこわかった。礼儀とかマナーってなんだろうって思った。

 僕のいる会社にも、もちろん色々な業者さんが出入りしていて、顔なじみの営業さんとかも何人かいらっしゃるんだけど、プレゼンの時とか、業者が決定する日とかは、どんなに真夏でもスーツにネクタイをビシッと決めていて、「ああこれがプロか」と思いました。単に契約の確認とか、納品の日とか、契約書取りに来る日とか、たいていの日はカッターとか、少し軽い感じの格好だったりするのだけれど。


 って考えると、真夏の就活でも、スーツ着てビシッと決めたほうがいいというの、何となく分かるでしょ?なお、僕としては別にクールビズでもいいと思うよ。でも、それ相応に見られるよ、とだけは忠告しておこう。ところで、

そして、企業側の人間は、平然とクールビズを着用している。

 まあ、こっちは採用側だし。って言うと反発来そうだけど。こちらはこちらの規程で動いているからな。とはいえ、こっちも値踏みすることはもちろんできる。「あの会社、クールビズで対応したからなしだな」って思ってもいいと思う。でも実際のところ、そんなことは気にならないんじゃないかなあ。


 例えば

コミュニケーション能力という訳のわからん曖昧な能力が重要視される。だから面接で落ちた理由もよくわからない。


 異性に告白して「〇〇さんは、やさしくていい人だと思います」とやんわり振られたこと、ないかな?優しくて良い人なのに、どうして振られるのか、これは「わからない」。それと同じで、所詮人の考えが理路整然として自分に伝わることは稀なのだ。
 更に付け加えれば、異性も「他に好きな人がいるから……」とか「何となく……」とか「友達としてしか見れない」とか、本人自身「よくわからない、けど違う」というふうに思っていることも多い。つまり、あなたが悪いわけではないけれども、ダメ。こういうことは社会の中では日常茶飯事である。


 「運・カン・誠意」が運命を決める、という話をしたことがある。結局、全ては運だけれど、それを最高に引き寄せるために必要なのが、自分の感性と誠意。じゃあ、努力できることは?最低限の誠意。つまりそういうこと。


 例えば、

SPIって何ですか?SPIじゃなくて法律や一般常識や時事問題や日本史や世界史や語学を問うて下さい。大学で何を学んだのでしょうか?SPIを勉強するために大学に入ったわけではありません。

 誰もSPIの勉強してくれ、なんて一言も言ってないし頼んでない。やるのは個人の自由だけど……


 自慢だけど、私はこれまでSPIの勉強を1分たりともしなかったけど、SPIで落とされた企業は一つしかなかった。(唯一F総研に落とされたけれど……あれは誠意が足りなかったいい例だなと反省している)そして、大学時代に最後に受けた企業からは「筆記の試験は良かったんだけどね……」って言われて落とされた。それだけ、SPIには自信があったのだけれど、でもまったく勉強はしていなかった。というより、別に勉強するものじゃないだろうと思うからだ。


 個人の能力の1つとして、論理的思考力がある、推理的思考力がある、一般的な言葉を知っている、というのは気になるところであるし、実際働くことになると、様々な仕事の土台となる。だったら、それが重視されるのは当たり前ー。でも、SPIの攻略法を知っていることは、なんのプラスにもならない。(いや、僕を説得できるようなプラス策を述べてくれれば、それはプラスになるが)し、求めてない。あくまで知りたいことは今上げた能力があるかどうか、その手段としてのSPI。というだけなのだ。



 ……とまあ、読んでいて、「企業側の思考」をまったくわかっていない学生のなんと多いこと。(もっとも、そういう思考が見えなくなっている現状は大いに問題だと思うし、これは企業側にも責任がある)と嘆いたのが一点。あとは

リクルートスーツを着せられるわ、履歴書は写真付きと手書き強要で、修正などで再利用も出来ない。これ以上貧乏人から金を巻き上げる上に、紙の無駄遣いまでさせるんじゃねえやい!

 とかいう、単に暴れたい系の方や(だって公文書に修正液とか使ったらダメじゃん)(でも、個人的にはこの方には電動砂消しゴムもお送りしたい)

今とある地方のメーカーに勤めているが、採用の時は「出身地では差別しません。」と言っていたが結局受かったのは地元出身者とコネ保有者のみ。ふぅん、あっそ。

 という、「結果だけ見るとそうだろうな……」というもの(差別しなかったが、結果的にそれが会社にとって一番都合のいい選択だったからだと思うな。)など。



 ちなみに、一番嫌いなのは「留学できない・卒論に集中できないのは就活のせいだ」という奴。いや、それなら就活しなかったらいいと思うよ。マジで。


 僕の親友は修論に影響するから、って言って、本当に現役時代就活しなかった。で、卒業後、公務員受けて、来年から働くことが決まっている。後輩は留学して、一年遅れてこれから就活だけれど、きっと面白いところに決まるんじゃないかと思っている。僕も、卒論に響くの嫌という理由で、5月の末にあっさり諦めて修士に進んだ。修士の時は後がないって言って半年位勉強サボってたけどね……
 言い訳するぐらいならやればいいと思う。そして、やらないことを選択したのならそれはどうこう言っても愚痴にしか聞こえない。別に愚痴が悪いわけではないけれど、愚痴にしか聞こえないということは覚えておいたほうがいいだろう。



 もひとつ。

ほぼすべての企業が「新卒至上主義」「有資格者至上主義」「経験者至上主義」のどれかにあてはまるしかなくなってるこんな世の中じゃーポイズン!

 だって、企業も人を雇うことは慈善事業じゃないもの。そりゃー、この上の3つがない人は相対的に選びにくいよ。もっとも、それに変わるプライオリティを自分が提案できればいいだけなんだけどね。意外に難しいけれど。

買い占めは存在するのか?

 首都圏を中心に買い占めが話題になっている。


 ここで言う買い占めとは、なんであろうか?わかりやすく考えてみるために、「買う」と「占める」に分けて考えてみよう。まず「占める」。これは多くの人のために用意されているものを自分が占有する行為だと位置づけてみる。例えば、ここにりんごが100個あったとして、これを物不足に悩む50人の人で分ける。この時に、あるひとりが100個全部を持っていったら、いかがだろうか?彼がもしジャイアンで、残り99人ののび太を――って、書いていてシュールだな――全員殴り、そしてジャイアニズムを発揮して占有してしまうとする。さて、この時のジャイアンの活動は糾弾されてしかるべきであろうか?……多くの人が糾弾されるべきだと答えるのではないだろうか。りんご2個もあれば、大抵の人は満足することができる。それをひとりで占有してしまうのはいかがなものか……と。


 では、同じくりんごが100個あったとして、それをゾウ25頭とネズミ25匹で分けることを考える。これを全員に2個ずつ分けたときに、数の面では平等である。ゆえに、占有は起こっていないと言える……だろうか?恐らく、ゾウ1頭に対してりんご2個は少なすぎるし、ネズミ1匹に対してりんご2個は多すぎるだろう。つまり、数を均等に分けたところでそれが即ち占有を逃れるとは限らない。そこで占有とは、身の丈にあった以上の物を集めることによって起こることだと言える。人間では体格も全く変わらないではないか……と見る向きもあるかもしれないが、家族、親戚という存在を考えれば、自ずとある一人の人間が背負っている「体格」というのは違う、ということがわかるだろう。このように「占める」という行為一つをとってみても、単に数合わせだけを見たところで、それがすぐに占める行為を俯瞰できることは限らないとなる。


 次に、「買う」という行為を考えてみよう。買うとは売買契約の一部分を取り出してきた行為である。すなわち、品物を受け取る、その対価を支払う、これが売買契約の根本である。品物を受け取るのにはそれ相応の対価を用意せねばならず、それは質、量の向上に比例するのが一般的である。うまい棒を1本買うためには10円を用意すればいいが、10本買うためには100円を用意する必要がある。(消費税は考えない)これは資本主義の基本でもあり、100円を用意できない者に、うまい棒は10本も与えられないし、逆に100円を用意できた者がうまい棒10本を求めた際には、うまい棒10本を渡さなければならない。しかし、もちろん拒否することも可能である。


 さて、先ほどのりんご100個をスネ夫が全て買ったとしよう。この買う行為自体は何ら問題のない行為である。なぜなら、今「買う」事を考えてきたが、このスネ夫の売買行為は、それ自体を取り出したときにはただの契約に過ぎない。これに、落ち度はない。ここで、「物不足に悩む50人」という具体ケースが表れる。この時に初めて、スネ夫の一連の行為が評価される。しかし、買うことそのものには落ち度がないことを先ほど示した。そこで、占めることに問題があるかと考えるのだが、占める行為が単に数合わせだけで考えられないという話は先ほどした。したがって、単にこの行為だけを取り出してきたところで、買い占めが即不当、ということは言えないのである。


 なぜ買い占めが嫌われるかということであるが、おそらくは倫理的には問題があるように感じられるにもかかわらず、法律としては何ら問題がないという点にあるのだろう。物不足だから、互いに融通しあわねばならない。その協調姿勢を合法的に崩す買い占め行為は、その背景に何があるかはおいておいて、とりあえずは不当!と言いたくなるのだろう。「金にモノを言わせ」などといい、そもそも金銭を操ることが美徳とされない日本では、また自粛ムードに代表されるような協調姿勢を好む日本人にとっては、たとえそれが合法であっても、心情的に許せないものなのだろう。


 さて、次に後編としてそんな嫌われる買い占めは、本当に起こっているのだろうかということを考えてみたい。だって、こんなにも問題ないにもかかわらず嫌われる買い占め行為ですよ。やったら袋叩きにされるんじゃないですかね?なのに、なぜそんな事件が起こっていないのか……というお話。