そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

ブームらしい

 東電叩き、原発反対がブームらしいので、私もなんらかの形で叩いてみたい。責任とれー、私たちの土地を返せー、誠意ある回答をしろー、回答はでたらめだー、謝罪よりも行動しろー。以上東電叩き。ついで、原発反対。原発は事故が起こったら大変だー、クリーンエネルギーにしろー、原発は再稼働するなー、原発は責任重大だー。以上原発反対。


 さて、気は済んだか?


 ま、このように言葉にしてみても、不毛だなあと思うこと甚だしく明らかな訳で。「で?」と言わざるを得ないのだよなあ。具体的な反駁になっていればまだしも、だって「誠意ある回答をしろー、回答はでたらめだー、」なんて言われたら、どないせえっちゅうねんと関電でなくとも強く思う。


 そりゃ、こんな会社の言うことなど信用できない。といわれればそれまでなんですけどね。でも、それなら東電に調査を依頼すること自体が間違いな訳で、どこぞの監査法人か調査会社か探偵を雇ってやらせた方がいいだろうと思う。だって、回答を求めている会社の回答が気に入らないからでたらめ、って言われちゃったら、もうどうしていいかわからんよ。


 そうでなくても、一時期計画停電を挟みつつも今日もしっかり電灯が点いていることについて、これは結構すごいことだと思うのだけれど、誰もがそれは当たり前だと思っているし、ねぎらいも何も無い。今日も叩く。その今あなたが使っているワイヤレスマイクですが、アンプで音を増幅するときに使う力のことはお忘れではないでしょうね。あ、パナソニック製の単2電池でしたか、失礼しました。


 そういえば、電気料金値上げでパニックになっているけど、私はもっと電気料金は高くていいと思っている。そうだなあ・・・今の10倍ぐらいになってもいいんじゃない?さすがにそうなったらみんな極力電気を使わなくなるでしょうし、原子力自然エネルギーに代えれば、まあそれぐらいの負担は課されてもしかたないんじゃないかと思えるレベル。


 結局のところ電気に頼り過ぎなのです。電気はあるのが当たり前だし、点くのが当たり前。電気はどこか遠いところで作られて、よくわからないけれども我々は使える。そう思われていたのが、これだもの。私はもっと電力って当てにならなくてもいいと思うのですがね。というより、まずは当てにされ過ぎということで。

長くひどく憂鬱な梅雨


 梅雨に本格的に入ったらしい。しかし、もう6月中旬なのだ。6月上旬もぐずつきがちな天気ではあったが、しかしごばっと雨が降る日はほとんどなかった。だいたい、本格的な梅雨のシーズンといえば、6月中旬〜7月上旬ぐらいが基本なのに、どうして6月=梅雨で7月=夏なのか。まあ7月といえば七夕もあるし、海の日もできたし、海開きもあるし、夏休みだし、スイカは甘いし、夏のイメージがより強くなるのはわかる。これに比べ、6月のイメージは確かに夏じゃない。紫陽花と入道雲のコラボレーションは考えづらいし、かたつむりは干からびてしまう。6月に夏を感じるためにはせいぜい夏至に「夏に至ったぞー!」などと言って勝手に夏感を高めることぐらいしか方法はない。それとて、雨の日の方が多いというのに。


 しかし、よくよく考えてみると雨の日と夏は必ずしも二律背反的ではない。別に夏に雨が降ってもいいわけだ。そう考えると、梅雨と夏が同意してもいいわけで、7月は「梅雨でしかも夏」という位置づけにしてもいいわけだ。しかし、世間はそれを許さない。幼稚園や小学校低学年で配られそうな日記帳は、6月の絵では降水を確認できるのに、7月のそれでは降水を確認できる機会は稀である。思い切って2ヶ月が雨でもいいじゃないか。七夕with雨。海開きwith雨。スイカは甘いwith雨。何の問題もないではないか。まあ、海開きに雨なら「あいにくの天気」という掛詞がつくのだろうけれど。


 第一、降水が主役になる季節など、梅雨と冬ぐらいしか無い。冬とて、降ることそのものよりも、降った結果の状態が重視されているのだから、降水が主役になる時期は6月しか無いのである。日本はケッペンの気候区分では大半が温暖湿潤気候Cfaもしくは冷帯湿潤気候Dfaに属しているように、降水の多い国である。瑞穂国という美称は稲が瑞々しく育つさまから名付けられているが、瑞穂をもたらしたのも降水、とりわけ梅雨と雪解け水である。また、二十四節気には降水と関係ある名称がある。雨水、穀雨、白露、寒露霜降小雪、大雪。若干冬のほうが多いがまあいい。沖縄では梅雨のことを小満芒種というそうだ。しかるに、日本と降水は切っても切れない関係なのに、しかし、疎まれることが多い。曰く出かけられないからと、曰くお足元の悪い中からと、曰く生憎の天気と、曰くアメフラシが湧くからと。


 そういえば、雨の日のマスコットキャラクターといえばかたつむりと言われるが、今もって思えばかたつむりはそんなに可愛くない、というよりむしろ圧倒的に気持ち悪い。ベチャッとたヌルヌルがたとえゆっくりとはいえズルズルと這いまわるその姿は、やはり圧倒的に想像したくない。いろいろな寄生虫を体の中に持っていると聞いてますますかたつむりが気持ち悪くなった。普通のかたつむりですらそう思うのだから、殻のないなめくじとか、体長10cmのアフリカマイマイとか、服部緑地ジャンボタニシとか、それを踊り食いしてしまうフキダラソウモンとか、間違っても街なかで出会いたくない生物のオンパレードである。オンパレードといって東京ディズニーランドのパレードに混ざっていてもダメなものはダメである。


 さて、かたつむりの天敵は数多く捕食されることも数多いが、その食われ方も気持ち悪い。鳥に食われるとか、イタチに食われるとか、フランス人に食われるとかする奴はまだいい。ヤマヒタチオビという他のかたつむりを食べてしまうかたつむりがいて、そいつに食われるとか、リクウズムシという聞くからになんだかよく分からない生き物に食われるのは勘弁したい。マイマイカブリに襲われて溶解液をかけられて溶かされるのもとても成仏できそうにない。しかし、何よりも想像したくないのはレウコクロリディウムに襲われた時のことである。


 レウコクロリディウムは何らかの形で体内に入ると、頭の方へ移動し脳をうまいこと乗っ取る。そして、鳥に食べられやすそうな木の上などへ乗っ取ったかたつむりを導き、そこへついたら頭に入っている体をぐるぐると動かす。その悪目立ちっぷりと言ってはスーパー玉出の看板でさえ節電中ですか?と疑問を差し挟むようなほど、酷い悪目立ちである。間違ってもyoutubeとかで見てはいけない。これを何かこいつこそがレウコクロリディウムに乗っ取られているんじゃないかと思うが、鳥は捕食する。そして、レウコクロリディウムは鳥の体内でさらに成長しました。めでたしめでたし、となる。この乗っ取られる身体というのを想像すると、実におぞましいではないか。自分の意志とは関係なく体が勝手に動き、危険地帯へと誘うのだ。しかも頭はスーパー玉出である。


 しかし、よくよく考えてみるとレウコクロリディウムに中間寄生されたかたつむりは、もし自我が完全に崩壊していればむしろマイマイカブリに襲われるよりマシなのかもしれない。かたつむりに自我があるかどうかは全く分からないし調べようという気にもならないが、かたつむりよりも鳥のほうがその後レウコクロリディウムの影響を長く受け、苦しむことになる。


 と、まあ梅雨時になるとレウコクロリディウムに寄生されていた頃を思い出すから長くひどく憂鬱なのだ。……え、レウコクロリディウムは北海道にしかおらず、でも北海道には梅雨はないからおかしいって?残念、北海道にも蝦夷梅雨と呼ばれる停滞前線の滞留があるのだ。

未知を求めて

 昨日山に登っている時のことだ。登山していると、いつも物思いにふけるのだが、その時にもまた妙な気分に襲われた。中学・高校とワンダーフォーゲル部に属してきて、今また山に登っているが、改めて思うのはなぜ山に登っているのか、ということだ。ジョージ・マロリーは「そこに山があるから」と答えたのだけれど、果たして私はそこに山があるから登っているのだろうか。仮にそうだとしたら、山は方々に見えるというのに、なぜ今日この山を選んで登っているのか。


 なおも考えたが、結局思ったのは、別に山だけにこだわっているわけではないということである。

復活しますか?

 Twitterをひと通り動かし、Facebookを片足だけ突っ込んで、それでも結局はてなに帰ってくる。なんとなくここが一番落ち着くのか。多分自分のペースで自分の書きたいだけ書けることが何よりなのだろう。


 Twitter時代には何よりも、自分の書きたいこと、ネタがたまらなかった。140字貯まる前にそれが全部流れているのだから、たまるはずもない。それで今に至る。しかし、ここ最近の私の薄弱化は目に余るものがあるし、どんどんダメ人間になっていくのがわかる。ここらで少し見つめなおすべきだろう。


 友人がボケっとしてる頃、彼女さんに何を頑張っているのか尋ねられたことがあったそうだが、人からサボっていることがわかるようになってしまった昨今の僕はもっとひどい。と思うつれづれ。


 ふと気づけば、もう就活時代から2年近くなる。いよいよ忘れそうだ。まずい、続きを書くのか。書けるのか。もうどうなることやら。

就職活動、終了です(その九)

 6月は辛かった。という一言で始まるぐらい6月は大変な時期だった。本番まであと三週間、前回の記事で経済が得意分野、憲法民法が固め終わったと言っても、試験範囲全体から言えば、まだ半分程度である。したがって、残りの半分を固めなければならない。しかも、ここでいう固め終わったとは「完璧です!」というわけではなく、「まあ、本番で足は引っ張らない程度にはなったよね……」というレベルであったし、少なくとも他の教科もこれぐらいにする必要があった。


 6月の試験は国家II種(現・国家一般職)とS県の一次試験が控えていた。いまさらながら試験範囲を整理しておくと次のようになる。

国家II種
<第1次試験>
・教養試験(択一式):公務員として必要な一般的な知識及び知能についての筆記試験。出題数は55題、うち25題(文章理解[8]、判断推理[9]、数的推理[5]、資料解釈[3])は必須とし、残りの30題(自然、人文、社会各[10])から20題を選択。

・論文試験(小論文):一般的な行政に携わる者として必要な文章による表現力、課題に関する理解力などについての短い論文による筆記試験。1題。図や表が与えられており、それについて分析・解答してゆく資料読解方式の小論文。1000字程度。

・専門試験(択一式):下記16科目(各5題ずつ計80題)のうち8科目(40題)選択
政治学行政学憲法行政法民法(総則及び物権)、民法(債権、親族及び相続)、ミクロ経済学マクロ経済学、財政学・経済事情、経営学、国際関係、社会学、心理学、教育学、英語(基礎)、英語(一般)

S県
教養試験:公務員として必要な社会、人文および自然の各科学、現代の社会に関する知識(知識分野)ならびに文章理解、判断推理、数的推理、資料解釈等に関する能力(知能分野)についての筆記試験(大学卒業程度)45問出題中、知能分野20問を必須解答、知識分野25問の中から20問を選択解答とします。
専門試験各試験区分に応じて必要な専門的知識および能力についての筆記試験(大学卒業程度)40問出題、全問必須解答とします。:政治学行政学憲法行政法民法、刑法、労働法、経済学、経営学、財政学、社会政策、国際関係
この他論文試験は二次試験で。


 これを見るかぎり、まだ足りてないことが明らかだろう。国家II種の方はまだ「憲法民法×2・経済学×2」である程度は行けそうだったが、S県の方はすべて解答が必要で、範囲が全然足りないことは明らかだった。とはいえ、やるしかない。


 国家II種試験のほうが先になるので、そちらの対策をより先にする必要がある。ここで考えたことは、残りの3つをどの分野で解答するかということであった。この時に必要な選択は、短時間で、かつ6割(3問)が確実に取れそうな物を選ぶか、にかかっている。そのためには「範囲が狭い・今まで勉強したところや記憶とかぶっている所が多い」などの印象しか手がかりがなかった。最終的に「行政法行政学経営学」という割りとつながりのある3教科を選ぶことにした。まあ、王道といえば王道といえよう。

実は、最終的に私は行政法経営学社会学の解答を行なっている。理由はそのほうがよくわかったからである。


 とはいえ、予断を許さない。

就職活動、終了です。(その八)

 5月某日。私は京都大学へ向かった。無論、試験を受けるためである。勝手知ったるかのように裏から入り、そしてどの教室で受ければいいのかと迷い、結局正面へ回るというミスをやってしまったのだが、それにしても、なんと受験者の多いことかと思った。案じたとおり、7000人弱の1/3(試験は阪大・神大でもやっていた)=2300人が会場に来ているのだから、当然といえば当然だが、私はまさかこんなにたくさんの受験者がいるとは思っていなかったので、本当にびっくりしてしまった。
 面食らいながらも教室へ向かう。さすがに全員真剣で、スーツを着てきている者も3割程度いた。パッと見の印象だが、新卒じゃなさそうな顔の人も結構いて、1:1ぐらいの割合て混じっていたように思う。


 試験は10時からだったが、9時半の時点で問題が配られ、9時40分ぐらいにはもう説明も終わってしまった。実はここからの20分が試験の中で最もつらい時間だった。シーンと静かな教室に、ピーンと張り詰めた空気。否応なしに高まる緊張感が、実に苦痛だった。もちろん、なにか変な行動をすれば不正行為とみなされるし、かといってぼーっとするにはシチュエーションが悪すぎる。早くこの時間が終わればいいのにとただひたすら耐える20分。ようやくチャイムがなって試験が始まっても、頭が固まっていて全く試験に入っていけなかった。


 2分ほどして、ようやくスタートさせた。まずは得意分野の算数からスタート。

試験のテクニックの1つとして、一番得意な分野から始めたり、一番時間のかからない分野から始めたり、逆に苦手な分野、時間のかかる分野から始めるという作戦は、ぜひおすすめする。勢いをつけるために得意分野をやるもよし、時間をかけてゆっくり考えたいから苦手な分野から始めるもよし、とにかく自分のテストの型を作って、それにテストを合わせる形で解いていくと、自分なりに落ち着けるものだ。

 苦手な英語以外は2回見なおしして、憲法の1〜2問以外は全く不安がなかったから、まあ大丈夫だろうと思いながら、残り15分。ぶっつけだったが、なかなかいい練習になった。


 帰宅して早速試験対策の続き。何とか5月中に憲法民法は固め終わり、経済学は得意分野と自負できるぐらいの力は身につけた。

こんなのんびりした対策が許されるのも、国II(国家一般職)や県庁の試験が遅いからである。国I(国家総合職)や都庁ははるか前に終わっており、こんなペースじゃ絶対間に合わない。

 残る行政法と各種学論であるが、結論から先に言うと、行政法こそ何とかなったものの、各種学論は経営学こそまともになったが、政治学行政学は結局終わらなかった。間に合わなかった。


 6月もこんな調子で、ただ、何とか教養試験で逃げて専門試験で互角というレベルまでは高めていけた。

就職活動、終了です。(その七)

 ほぼ1年ぶりの執筆。今年も就職活動の時期だなと思って、ふと自分の活動のことを振り返ろうとすると、なんと記録が途中で終わっていたことに気づいた。これはまずい、すまんすまんと思いながら、ちょうどいい機会だし、忘れていることも多々あるが、もう一度書いてみるか、と筆をとる。


 これまでの話はこちらから→http://d.hatena.ne.jp/kyoto117/20100714
 前回→http://d.hatena.ne.jp/kyoto117/20100916


 講義答練を続けながら思ったことは、講義だけを聞いてもほとんど身につかないのだな、ということであった。自分で考える事、思い出すこと、反復することのほうがはるかに必要だということ。そうでもしないと覚えないし、ましてやテストでは発揮することができないのだ、ということである。
 したがって、講義を聞いている間にわからないことがあっても、完璧に理解するよりかは、次へ進んでしまったほうがいいとなる。そういった抜けは講義答練の間になんとかなっていくもので、先に憂いを感じても仕方がない。


 とはいえ、この時期が一番焦った。試験まで1ヶ月を切っているにもかかわらず、どの分野もぼろぼろだった。憲法民法行政法・ミクロ・マクロ経済学・各種学論と、最後までひと通り答えられる分野はなかった。

ちなみに、この時の一日の理想のスケジュールはこちら。
午前:6時前に起床。コーヒーを淹れて机に向かう。経済学を2ターム(約4時間)やって家の片付けをする。その間にちょくちょくBlog書いたり、Twitter更新したり。
午後:13時〜14時から3ターム。法律(憲法民法行政法)が2タームと学論(政治学行政学等)が1ターム。でも、途中で晩御飯の用意などを初めて途中で終わる。

 こういう風に書くとずいぶん勉強しているように見えるが、このようにに過ごせた日は多分10日もなかった。大学は週1〜2で行っていたし、バイトしたり、趣味活動をしたり、SS読んだりして、遅々として進んでいなかった。とはいえ、一日全部が潰れることもなくて、午前だけとか午後だけとかはこのスケジューリングに則っていたと思う。


 さて、そうこうしているうちに、国立大学法人の試験が迫っていた。そのため、私は金曜に京都へ帰り、土曜の試験に備えた。この国立大学法人の試験について、詳しくは国大協のHPを見てもらいたいのだが、簡単に言うと、H16に国立大学と諸機関が法人化されて以降、採用は各機関の独自裁量で行わることとなったが、統一の一次試験が今でも設けられている。この一次試験を突破すると、各機関への採用資格が得られることになる。
 国立大学法人の中にも地元で働ける機関はあったし、試験である程度受験者は淘汰されるし、試験対策も特別なことを始める必要がないから、と気楽な気持ちで願書を提出していた。

実は、試験前日に深夜の勤務を入れてしまっていて、しかも勤務を優先させて試験を蹴ろうとしていた。結果的に後輩に勤務を変わってもらうことができたので、試験を受けに行くことになったが、今から思うと、ものすごく意味のある変更だったのは間違いない


 国立大学法人の試験はいわゆる一般教養だけである。したがって、国家公務員試験や県庁試験と分野が同じであり、案じたとおり特別なことを始める必要はない。しかし、教養試験だけということで、国家公務員ほどのしっかりとした対策が必要でないことから、それだけ志望者が多くもなる。

例えば、私が受けた試験では関西地区だけで6,800人の受験者がいた。今年は7,400人の受験生と、着実に増えている。

 そして、受験者が多いと当然合格のレベルも上がる。倍率が7.1倍ということだから、概ねボーダーが80%超、とも言われている。一般的な国家公務員の合格レベルが教養7割・専門6割と言われているから、いかにミスを少なくするか、それにかかっているといえよう。


 そして、5月のとある土曜日。私は受験会場である京都大学へ向かった。