そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

無限大の可能性と無限大を越えたもの

http://nafidha.sfc.keio.ac.jp/assalam/archives/2006/06/post_26.html
私の所属している研究会は2つなのだが、いつも話しているA研の話ではなくて、今日はO研の話。أستاذ كمالのWeblogを読んでみて思った。詳しくは読んでみて頂きたい。私は何も紹介しないので。*1


 人間の霊魂は∞である。霊魂は永久不滅であり、今地球上にいる人間という姿は仮の姿でしかない。私にも母親の胎内にいたという時代があったのだろうが、胎内にいた時がまた一つの生であって、この世界に生まれてきた時に、同時に胎内であった状態からは死んでいる。という解釈がある。しかし、人間の霊魂としては不変である。したがって、∞であると。考えてみれば霊魂と言う存在*2を掴むことなど、まだ雲を掴むことの方がたやすいであろう。


 ∞+1=∞であることから、「1人の人間を救うことは無限大の人間を救うことに等しい」とは確かにと思う。これは、ある友人からふと出た言葉であるが「2人が一緒にいることだけでも世界に何か貢献している。2人がお互いに善くなれるのだから」この二つの「」、実は同じことを語っている。そこにはある種の人間の可能性というものを感じる気がする。あるいは、人間の繋がりか。大いなる宇宙、いやその宇宙を司るاللهによる人間のつながりである。「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、そこには何か「ピタゴラスイッチ」的なつながりを感じるのだ。∞−1=∞にしても同様に。


 私はしかし、この式を見てわからないのは無限大と1の意味である。1人の人間とは果たして1で定義できるのか?逆に無限大の人間って必ず人間の数には限りがあるぞ。1人の霊魂か1と数えられるのなら無限大の人という概念は成り立たなくなるし、逆に無限大の人間の霊魂とといえるのなら1人の霊魂だって無限大であろう。1人の持つ霊魂は仮に霊魂を数える単位があれば「1レーコン」と数えられ、しかし、霊魂は「レーコン」と言う単位が与えられつつもその実体は∞なのだから、レーコン=∞と言うことなんだろうか。うーむ・・・この解釈、何が間違っているんだろう・・・


 とはいえ、その後のドットの話は本当に面白い。我々は宇宙のあらゆるところを選ぶことが出来る。それが人間の限界だ。我々が選べるのはドットが与えられているところだけだ。その先にあるものは見ることこそ出来るが、どうにかすることは出来ない。「人生は決められたレール以外にもいっぱい平原が広がっているんだけどね。どの道だっていける」とはよく言う話だが、しかし、その平原しか我々には与えられていないわけである。これは悲観的な見方であるが、そうではない。ドットというガイドラインが与えられているだけで、ずいぶん人間楽な商売だなと思うのである。


 ふと思うのが、ドットという概念は生まれてから死ぬまでの流れを形作るのに非常に役立っていると言うことである。要は「生まれて→大きくなって→老いて→死ぬ」と言うこと一連の流れだ。この一連の流れはどうすることも出来ない。ドットがあるからこそそのドット間は直線で結ぶことが出来る。だから、単純に生きやすいということもある。また、この話に関連してベクトルと言うのも人間のサイクルにはあるのだろう。このベクトルがあるからこそ、また生きやすい。だってそうでしょう「生まれて→死んで→老いて→大きくなって」とか「死んで→大きくなって→生まれて→老いる」とか決まってなかったら、もう俺らどないしたらええんでしょうね。


何だか、話が纏まらないままだけれど、この続きはまた変なことを思いついたら書きます。とりあえず、今日は久々に面白い考え方に出会えてよかった。

*1:私は人の文を要約すると言うのが嫌いだ。なぜなら、私が要約した時点で、それは人の文ではなくなるからである

*2:ほんとにあるのかそんなもの