そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

少なくとも、片足を上げないと歩くことはできない。

 久々のWeblog書評。前回は随分前のことでしたね.あれはأستاذ كمالのWeblogだったかと。
 今、私の友人がケニヤにいて、NGOの職員としてインターンを行っている。彼女のWeblogを見て、色々と考えさせられたので、ここで感想等の殴り書き。このレポは大体2部構成になっていて――もちろん繋がりはあるのだけれど――一つ目が、ナイロビの大學――私たちの通う大学が「大学」ならば、彼らの通う大学は「大學」だ。――で、授業を聞いた話.二つ目がそこで会った学生と一緒に東アフリカ最大のスラムに行った話.


 ナイロビの学生の本心が気になる。彼らは何の為に勉強をするのだろうか。生きるのに必死で、社会を良くするのに必死だと彼らは思っているのかもしれない。貧困を解消したい、病気になる人をもっと少なくしたい。グローバル化の中で、ケニヤも「搾取される」側の立場にあるのは、否定できない事実である。彼らのフィールドは問題の連続なのは間違いない。


 敢えて、日本にいる私が思うことは、「ただの社会の勝者になって、それに胡座をかかないでもらいたい。いつになっても。」ということだ。自分たちが批難する政府に吸収されるような学問、吸収されるような人間にだけはなってもらいたくない。もちろん、それは政府を超えた、国家間同士の付き合いになったとしても・・・まあ、大きなお世話なんだろうが、この思い。


 大学にいる以上、勉強をすることは義務であり、勉強ができない――環境の要因や、実際に金銭が伴わないと勉強はできないのだし・・・この仕組みある意味変だけど――人々への奉仕がなくてはならないのだと思う。まあ、自分もいつ寝首をかかれるか分からない社会で、それでもなお人のためになる行為は僕ら以上に難しいんだろうな.


 しかし、私たちには余裕がある.少なくとも、相手の現状で抱える問題と比べたら、だ。だから、その余裕を彼らに分けねばならない.彼らが出来ぬこと、私たちが手伝わねばならない.とはいえ、特定のフィールドに関わったものではなく、片方の軸足を世界共通に持っていけそうな理念に置いて、もう片方の足を常に動かせるようにしておかねばならないと思う。これは、また下にも書くけれども。


 話は変わる。
 今日本にいて、毎日を平穏に暮らしているわけであるが、――それでも、今や痲疹は猛威を振るっているし、日々暮らす人の中から迷いは尽きないが――果たして、それは絶対的に幸せなことであり、相対的にも幸せなことなのだろうか.私は、両方とも自分の想像次第だと思う。まず、絶対的な幸せとは、もちろんこの場にいるということだ。自分が今いる三次元空間にいるという事実こそが、何よりの幸せである。――このように書くと、今いるSFCの研究室の環境にだからだろうと見る向きもあるかもしれないが、そうではない。私はどこにいても――この次元から弾き飛ばされない限り――いることに幸せを感じるだろう。


 さて、相対的な幸せを考えるとどうか。私たちはキベラの住民よりも幸せなのだろうか。今、私はPCを持って、この本文を打ち込んでいる。幸せなことだ。少なくとも、今の段階で食うことには困らない。やはり幸せなことだ。しかし、それだけが幸せの要因たりうるだろうか?もちろん、大きなファクターの一つには間違いないだろうが。さらに、物理的な幸せから、離れて、精神的な幸せになったとすれば?


 キベラの住民のことを知って、心を砕けるというのは幸せなことなのか?もし、自分が平穏無事に思っていられることが幸せだとするならば、知った瞬間は衝撃が走ったのだから、それは不幸な瞬間だったのか?いや、しかし、一つまた考えなければならないことが増えたというのは不幸である反面、世界が広がった部分、幸福なのか。


 こう考えると、彼女には「知った幸せと知ったが故の不幸せ」の両側面のフラグがたったのではないか.そもそも、朝、初めてこの文を読んだ時に思ったのは「彼女の希有な体験への嫉妬」だったのである。だから、そして、そのレポートを読んだ私には「知った幸せ、知った不幸せ」のみならず、それを肌で感じることができなかったが故の「不幸せと、幸せ」があるのだ。


 どちらが幸せなのか分からない.もしかしたら、この現実さえ知らない――恥ずかしながら、私もキベラのことについては何も知らなかった――世界およそ40~50億人の人の方が知らないだけ幸せなのかもしれない.ただ、逆にその知っている10億人の方が「知っている」という事実分だけ、幸せなのかもしれない。知ることで出来る選択肢が増えるのだから。何考えることも、目を背けることも自由自在。


 話はあちらこちらに飛ぶが、彼女自身

「1番『可哀想』なのは誰か」っていう視点を持って世界を見てしまうと、とてもグロテスクなスパイラルに陥るんじゃないかって思う。

という、コメントを残している通り、果たして、彼らだけをいたづらに『不幸な人』とレッテル張りをするのも、また間違いなのかもしれない.それは、ちょうど昭和初期の人をさして「洗濯機が無いなんてかわいそう」というのと同じことである。


 だから、キベラも常盤平団地*1も“かわいそう”という見地から言ってしまえば同じものなのかもしれない。――ちなみに、ケニヤ人学生が仮に老人の孤独死問題を知ったときどういう反応を見せるかというのは、ちょっと見てみたい気もする。かわいそうだと思う心は、やはり、それも人間として感じるべき当然のことなのだろうか。


 つまり、我々が問題意識を持って当たる部分にはなんらかの「情――かわいそうと思うこと」の介在がある。しかし、そのかわいそうという考え方で問題に当たることはすなわち、ある種問題意識の硬直化を生む。学問が今のところ、科学をその基盤に置いているのだから、情というのは本来排除されなければならないことになるからだ。*2情は冷静な判断を妨げることが多々ある。盲目になるからだ。目をつぶっている人に誰も案内なんか頼みはしない。


 我々の研究は特定のフィールドに関わったものではなく、片方の軸足を世界共通に持っていけそうな理念に置いて、もう片方の足を常に動かせるようにしておかねばならないのではないだろうか。そうしないと、深みに嵌るのだ。深みに嵌る人が必要なのは事実である。しかし、少なくとも、彼ら以上に余裕のある我々が深みに嵌ってはいけない。基本的に深みに嵌るともう、それしか見えなくなって、いつでも失敗を招くのである。広い視点を持ちうる人は深みに嵌るとき、それなりの準備をする。ちょうど、水を飲む時に細心の注意を払うキリンのように。それが、我々余裕のある研究者に求められている意識なのかもしれない。


参考URL:http://blog.livedoor.jp/aayyaammiiss/(書評Weblog本文)

*1:千葉県松戸市にある団地、2005年NHKスペシャル孤独死の問題の例として取り上げられた

*2:ことわっておくが、私は情に流されて研究を始めるなと言っているのではない。むしろ、動機の強力な一因として見ている。