そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

小島元学部長がご逝去あそばされました

 死因は癌だったそうです。


 小島学部長とは、小島研でもなかったのに、何度かお会いし2,3言お話ししたことがあります。学部長は、2005年に、セントジョセフ大學との大学協定調印のために、はるばるベイルートまで御足労を頂きました。当時はお元気で、またベイルートイスラエルに侵攻されるまでの、表向き平和時代でした。学部長は我々の日本語スキットビデオ撮影の様子も少しご覧になり、出演していた私のヘアメイクを見て、笑っていらっしゃいました。私の髪型は、少し学部長に似ていたかもしれません。タクシーにも一緒に乗りました。セダンのタクシーに、前ウテシと学部長、後ろに、أستاذ كمال、نبيل、نورا、أنور、師匠の5人で乗りました。


 学部長はシリアにもそのままいらっしゃいました。昼食時の手記です。

昼は今後アレッポでの昼食事情を支えてくれることになる「アボ・ヌワース」*1での初食事である。(中略)はっきりと覚えているのは小島総合政策学部長の食事中の言動で、奥田先生に感想を尋ねられて、「日本で食べられるものばかりじゃないか」と仰っていたことである。さすが、学部長は中国を研究なさっているだけあって、これぐらいのものでは驚かないらしい。

 学部長はアラブ人留学生歓迎プロジェクトの際にも、色々とご協力いただきました。学部長訪問の際には学生に言葉をかけてくださり、修了式では学部長御自らが、学生に証書ウを渡されておいででした。この日、学部長は学校の別の場所で他の会合中だったのですが、そこまで私が呼びにいったのもはっきりと覚えています。その時も少し、お話が出来ました。


 まさか、この時の会話が最後の会話になるとは、思ってもみませんでした。


 私は、少なからず後悔しています。それは、学部長の講義を聞かないままだったと言うことです。私の今の研究課題と学部長の専門分野はあまりに違うものなのですが、学部長の講義はそれを超して、一度受けたかった。はっきりとそう思います。感覚ではありますが、あのいつも少し笑みを浮かべての淡々とした話し方は、本当に独特だったなと。そういえば、学部長が最も推していた言語は他ならぬ、アラビヤ語でした。


 まあ、学部長がいらっしゃる間にSFCに入って本当に良かった。私はそう思います。むしろ、学部長がいらっしゃったからSFCに入る気になったのかも知れません。そして、SFCに入ったからこそ、今があるのではないかなと思います。


 本当に、お世話になりました。ご冥福をお祈り致します。


 アヌワル。

*1:レストランの店名。有名な詩人だそうです