そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

自分の研究/ここまでのまとめ。

 色々と考えている事をまとめておく。


スタート地点にある「日本人の絶対的安心感創成方法」What, so What, Why
 自分自身がイスラームを知って、研究会での活動を通じて、何か今までの価値判断基準が崩れた。特に、ムスリムの持つ来世に対する保証は絶対的に安定している。だから、程度の差こそあれ、概ね人々の観念は安定している。アッラーという絶対的な存在がその保証の根本にあるという事を知り、これがもし日本人にあれば、と感じた。

頼れる物を探してみた。(過去の思想であったり、天皇制であったり。)しかし、未だかつてそれはない。
ただ、調べていくうちに、現代で頼れるものの一つに「萌え」がある、ということが語られた。(それを語ったのは本田透)
そこで、かつてのモーヲタ、いまでも「おたく」である私自身が、しかし、最初に書いたような思いに変化したのは何故か、萌えは究極ではなく同一ベクトル上にもないのか、ということが酷く気になった。

そこで、「萌え」行為に興味を持った。しかし、立場としては懐疑的である事は否めない。何故なら自分がかつての自分を省みると、全くどうしようもないことしか思い出せないからである。
今まで、私がオタクコンテンツの中で深入りしてきたのは「Hello Project」「処女はお姉さまに恋してる」「らき☆すた」他多数。

「ありうる」としたのが3春。「やはり無理」としたのが3秋。無理と思うのは、コンテンツとの関わりが、背景にある符号(いわゆる萌え"要素")を主としてしまっている。からとした。
今では、その軸で語るのは横暴と判断。しかし、ただ「萌え」るだけではかなり拙い、ということはわかっている。
↓(今ここ)


しかし、何故人はそれでも頼りも高い価値を「萌え」に与え、すがり、頼りを見出してしまうのか、見出させているものは何か。
例)<リアルに夢無し>、卑近な可視特性*1アイデンティティの保証、「萌え」共有共同体(彼らはスピリチュアルな何かを感じているのかも)
ここに萌えの本義があるのかもしれない。
しかし、これらは結果的に「神以外のものに祈ってしまっている。」
(とはいえ、日本は未だに天帝を見出していない。)ため、それも仕方がない。そちらに行くことも考えられる。
しかし、それは不安に思いませんか? 


そこで、一人の人間サパルムラートニヤゾフの作り出した書物、すなわちルーフナーマによって、人々はどこまで統制され、あがめ、安心し、一方に向かえるのだろうか。実は彼らはムスリム。(一部ロシア正教徒もいるが)
イスラームという確固たるものを持ちえている彼らは一方でルーフナーマを読んでいる。コーランとルーフナーマをともすれば同等にさえおいてしまう彼らは、どんな気持ちで見つめているのか。彼らは単純に独裁に虐げられているだけなのか、あるいはそうではないのか。
トルクメニスタンの社会機構の中でルーフナーマのしめる地位。」


さらに、ルーフナーマは「人間の作り出したテキスト」。コーランというかむしろ、萌えコンテンツと近い。人間の作り出した、でも価値を魅せようとするコンテンツ。何故コーラン>=ルーフナーマがあり得るのか。2つの「絶対的」テキストを持つ彼らでない限り、この比較はできない。日本ではこのような絶対的テキストがないので、どうしても萌えコンテンツだけを右往左往せねばならなくなる。


今のすべきことは2つ。
トルクメのデータ集め。
「萌え」の自己なりの定義。

*1:私の考えだした概念の一つ(か?)確かに、ゲームやアニメのキャラクターの言動は往々にして善い言葉を語っているが、それ以上に立ち居振る舞いや言動、癖やエロに心奪われてしまうこと