そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

第一章背景にあるもの。

1.1.本稿の狙い

 本稿の目的は、日本のポップカルチャー界、とりわけアニメーション(以下、便宜上「アニメ」と表記)やアイドルとそのファン、いわゆる「オタク」を分析する上で10年程前から欠かせないキーワードとなった「萌え」を対象として、使われるようになった経緯やそれにまつわる言説を整理し、以下の三点について考察を加えることにある。
(イ)「萌え」とはいかなるものか:「萌え」が示す感情や機能とはいったい何か。「萌え」という言葉をわざわざ使うことで表すことのできる感情と、行われている精神活動の統一的見解の考察。
(ロ)「萌え」の持つ作用:「萌え」が持つ作用の保持する有用性及び、不都合性の証明。「萌え」ということで、良いことは何だったか。悪いことはあったのか。
(ハ)「萌え」の必要性:「萌え」が現れてきた過程。どうして、「萌え」という間隔を新たに発案しなければならなかったか。「萌え」でなければいけなかった理由。


 その上で、「萌え」と従来の思想や現代社会との比較をし、「萌え」が宇宙の外側まで繋がる多次元構造モデルを導きだし、その概念に順応する第一歩について提案する。これが本稿最後の狙いである。

1.2.萌える私の堂々人生と転落

 なにはともあれ、まずは、私が何故オタクに「萌え」に言及するようになったのかというところから話を始めたい。
 最も簡単なその理由は、私がオタクだからである。しかし、社会的認知度の高くない趣味(=サブカルチャー)は数多く存在する。オタクの定義を、これらサブカルチャーが数多ある中で、ある特定の項目に着目し傾倒していく人とするなら、これだけでは私がどんなオタクなのか、という問いには答えられない。実際、私自身多くの違った項目のオタクであって、どれか一つの要素を持って提示することはできない。そこで、まずは私自身のこれまでの人生を振り返ることで、いかなるオタクだったかというのを振り返ってみたい。


初めて私が「オタク」コンテンツに興味を示した記憶があるのは4歳の頃であった。その対象は乗り物である。*1私の生まれ育った街である京都には、鉄道、市営バスを始めとした数多くの乗りものが運行されている。そこで、よくバスや市内電車に乗せてもらっていた。これをきっかけにして、乗り物に強く興味を引かれるようになった。時刻表を読んでは、その地域を走る見たことのない列車に興味を膨らませ、ビデオや図鑑を見ては乗っている様を想像したりしたものであった。
 他にも、動物の図鑑を読んではその姿に驚き、昆虫の図鑑を読んでは怯え、*2地図を見てはまだ見ぬ遠い土地に想いを馳せていた。
 もちろん、外で活発に遊ぶことも好きだったが、このように重い本を担ぎ、その本を眺めては知らないことを新しく知ることが楽しくて仕方がなかった。知る知識を必要以上に増大させ、刺激を得ようとしたこれらの行為は、今から思えば「おたく」のはしりだったのではないか。と思っている。


 佛教系*3の小学校に入学し新しい知識分野を開拓した訳ではないが、その量は少しずつ、しかし着実に伸ばしていた。当時はインターネットがないため、その知識源は本とテレビに限られていたが、その分あるものは何でも吸収した結果、知識偏重主義者となっていった。とはいえ、鉄道や生物、地理歴史と言った系統の知識は豊富である一方、J-ポップスや芸能人にはまるで興味を示すことはなかった。*4
 カソリック系の中学に入って、テレビを見る時間、ラジオを聞く時間が長くなった。就寝時間が遅くなり、その分夜のニュースを長く見るようになり、AMラジオでヒットチャートを聞くのが毎晩の習慣になった。これに加え、我が家にPCが設置されたことも大きな影響を与えた。これらのメディア媒体から、多大なJunk情報を急速に得るようになっていった。後に私の部屋にはテレビも置かれ、自分自身が得たい情報を自由に、大量に得る手段を手に入れた。そして、鉄道や地歴といった分野に変わって「オタク」としての興味触手を伸ばした分野がアイドルである。徐々に、テレビやラジオでの活躍の場を広げていく姿に、いつしか心を奪われるようになった。そのアイドルこそ、「モーニング娘。」であり、「Hello! Project*5である。


 こうして、モーニング娘。のオタク、俗に言うモーヲタとなって高校時代を迎えることになる。きっかけはひどく曖昧で、今となってはもう思い出せないのだが、――ましてや、「萌え」はまだ理解もできなかった――確かに高校時代はモーヲタの時代だった。高校1年生5月の松浦亜弥コンサートを皮切りに、7月の「Hello! Project」コンサート、8月の「モーニング娘。」コンサートなどなど、ほぼ一ヶ月平均1回以上のペースでイベントに参加している。公式ファンクラブ、インターネット上のファンサイトにも足しげくアクセスし、掲示板で意見交換をしあう程にもなった。
 このように、高校の3年間は「ハロプロ」にどっぷりの3年間だったが、それによって様々な問題も引き起こしている。特に、出発直前まで親に断りを入れなかった高二5月の埼玉でのコンサートや、同年11月の大運動会で帰宅が深夜一時近くになってしまったことは親の庇護下にあるにもかかわらず、説明責任を果たさなかった問題事件である。また、コンサートが原因でクラブ合宿に参加しなかったり、モーヲタであることをはばからずに公言したりと、自分を中心に考え周りに対して気を使えなくなっていった。盲目的にハロプロの価値が自分の中で絶対化され、それに関するもの含めて応えることが最高の善であり、他のすべては二の次となっていった。


 大学に入っても相変わらずこの調子で、しかもそれを何とも思わない時期が続いた。周りを気にしない発言、行動は何ら改善されなかった。「ヲタ発言」*6「イエメンで踊るか事件」*7など、その例は数多い。何より、それが生み出す周囲の不都合に、私が何一つ気づかなかったのである。それらは、すべて捨象されていた。ハロプロの価値が絶対化という話がそっくりそのまま残り、いかなる行動に恥も臆面もなくなっていた。
 それにようやく転機が訪れたのが一年生末期から二年生にかけてであった。年度最後に行われたアラビヤ語研修の中で、多くの学生との合宿生活を通じて、凝り固まっていた自分の行動がことごとく否定され、破壊された。そして、自分自身がその失態に気づくようになったのである。ようやく、私は狂気的ともいえるモーヲタから抜けるきっかけを見いだすこととなったのである。


 その後、単発的にPCアダルトゲームやアニメに心を奪われることもあった。しかし、その熱心さは薄いものだった。むしろ、この時からアラビヤ語を通じて知ったイスラームに深く傾倒していくことになる。私は今までの自分をことごとく否定してみせた。かつての私の見るかのようなオタクを徹底的に攻撃し、3年の秋のレポートでは「「萌え」では救いはおそらくあり得ない」とまで言い切ってしまうのである。この傾向は4年になっても続いていた。
 しかし、これはイスラームの目指す本意ではない。詳しい説明は省くが、一神教である以上、我々は神の下で平等であり、人間である以上、我々には人権が保障されてしかるべきである。故に、過去の自分も、オタクも人間として決して否定してはならないのだ。それが、イスラームの本意の一つである。すっかり忘れてしまっていて、それを指摘され、ハッとした。
 思い返せば3年になる前、私は「何とかして「萌え」を昇華できないだろうか」ということを考えていた。自分自身の大学の折り返し地点に、「ここから大学での生活は纏める方向にシフトさせることになるのだろう、ならば自分の今までの経験を生かして、しかもやる気の出るような話をまとめると面白そうだ」などと思っていた。そこで、「萌え」と「信仰」について着目し、何故「萌え」がこれほど人を引き込むのか。その想いの強さを良い方向に持っていければ......そう考えていた。
 そんな想いでこの研究を始めたのに、没頭するうちに「萌え」を否定し続けた結果、そもそものきっかけである「萌え」自体が消失していた。そのような私がかつての自分のような目線から見ていた「萌え」と果たして同じ目線でこの問題を語れているのか。このままでこの話題を続けても、オタクでない者(以下、便宜上「非オタ」と表記)の外野から見る非難にしかならないのではないか、これではWeblogで非オタが書く「きんもーっ☆*8という中傷と何ら変わりがないのではないか......と。
 だからこそ、かつては彼らと同じく「萌え」ていたことを忘れないためにも、そもそもの「「萌え」の昇華」という目的を忘れないためにも、私はもう一度「萌え」と向き直して、かつての好意的目線から見つめ直す必要がある。そして、この話は「萌え」てもいて、かつ既存の「信仰」についてもまとめたことのある私でなければ、これからの話はできないのではないかと思っている。

1.3.オタクの正体

 記憶にも新しい、2008年6月8日。一人の男性が秋葉原を震撼させた。男の名前は加藤智大。午後0時35分、トラックで通行人を次々とはねた後、タクシーに衝突。さらに運転席から降りた加藤は、はねられた男性をサバイバルナイフで何度も刺した。その後、男性を保護しようとした警察官など目についた通行人を次々に刺傷、死者7名, 負傷者10名の死傷者を出した。その後、この事件は秋葉原通り魔事件と名付けられ、2008年を象徴するかのような痛ましい事件の一つとして人々の記憶に残った。
 ――亡くなられた方々のご冥福と、負傷された方々の一刻も早い回復とを、お祈り申し上げます。


 犯人、加藤智大とは何者か、という分析がその後なされている。彼は派遣会社の社員で、自動車メーカーに派遣されていた。*9動機としては「生活に疲れてやった」「誰でもよかった」などの供述をしているが、マスコミの報道スタンスの中に「加藤はオタクだった(に違いない)」という視点があったことは無視できない。経済アナリストで自身も「アキバ系」と称している森永卓郎はBlogの中で「加藤容疑者がアキバ系の趣味を持っていたため、一部のメディアは「アキバ系通り魔殺人」と名付けて、まるでアキバ系であることが、通り魔殺人の原因であるかのような報道をした。」「彼の犯行動機に直接それ(加藤容疑者がアキバ系の趣味を持っていたこと)がかかわっていたわけではない。にもかかわらず、多くのメディアが、まるでアキバ系が危険な要素を持っているかのような報道をしたのだ。」*10という偏向報道がなされていたと主張した。
 その上で、森永は同じ記事の中で「私は彼がアキバ系だったから犯行に及んだのではなく、アキバ系になっていなかったから犯行に及んだのだと思う。」*11というマスコミの認識とは真逆の見方をしている。いったいこの認識の違いはどういうことなのだろうか。


 オタクが引き起こした事件、とよく例に取り上げられる事件として88年・89年の「東京・埼玉幼女誘拐殺人事件」がある。犯人の宮粼勤には2006年1月17日に死刑判決が下り、2008年6月17日に刑が執行された。*12事件発生時、宮粼がオタクとして報道されたことにより、オタクに対して猟奇的、変質者といった強い偏見が生じた。*13 *14このように、オタク(とされる者)が起こす女児を狙った猟奇的な事件としては他にも2001年の「黒磯小2女児誘拐事件」2004年の「奈良小1女児殺害事件」「高崎小1女児殺害事件」2008年の「千葉女児殺害事件」などが有名である。
 この傾向に対し、女児を狙った犯行はまずオタクの仕業であると先入観を持ってとらえる例が現れている。2005年の「広島小1女児殺害事件」では、事件が発覚するやコメンテーターを中心に「オタクによる性犯罪」説が喧伝された。*15また、2007年の「栃木小1女児殺害事件」では、犯人が未だ見つかっていないのだが、その一つの理由として「犯人はオタクであるという先入観」が影響しているのではないかという説がある。*16


 この2つの事件が示すように、女児が狙われた事件では、まず「犯人はオタクである」という先入観を持ってしまう傾向にある。*17先に挙げた5つの事件の猟奇性が目立つ*18という側面もあるが、大きな理由として、次のように考える人も多いことだろう。「オタクの好むコンテンツには未成熟児が数多く描かれ、しかもいいように弄んでいるものが多い。そして、オタクはフィギュアやアニメといった物と現実との区別がつかなくなっている。だから現実の女児も自分のいいように弄べると彼らは思ってしまっている。故に、彼らは自分の欲望を女児で無理矢理でも満たそうとするのだ」と。
 事件性にまでは発展しなくとも、いわゆる「痛い」反応を見せるオタクの例もある。2008年10月、インターネットの署名募集サイトで「二次元キャラとの結婚を法的に認めて下さい」という記事が載った。*19企画者たちは大まじめなのだが、法的な定義からみても、「結婚」という制度が目的とする状態を踏まえても、さらに戸籍や家制度、財産、「両者の合意を不可欠とする」という契約の大原則を鑑みても、この提案は噴飯ものと言うほかない。また、2005年のモーニング娘。の香港でのファンクラブツアーにおいて、時間の都合上グッズを買えなくなったファンが係員に詰め寄り「なんでこんなに言うか分かる?! こんこんの事だからこんなに言うんだよ!」*20と叫んだとされている。他にも、今では普通と思われているような反応や行為でも、始められた当初は「痛い」と思われていたことは数多い。


 このような、目に見えてある犯罪行為やそこはかとなく感じる気味の悪さから、オタクに対して防衛を敷くあまり、過剰な対応も散見される。2006年7月に、千葉県市原市Berryz工房のコンサートが行われた際、行政及び警察署は市民の防犯ネットワークメールを利用して「不審者の多発」「子供(特に女児)の外出の際には十分気をつけるように」という内容のメールを送信している。また、2007年7月にはアニメ『らき☆すた』で舞台のモデルとなった埼玉県鷲宮町鷲宮神社にオタクが現れるようになったのを受けて、地元住民*21が「だが、非常に心配なことがある。それは治安の問題である。//実際、事情を知らない近所の方々はカメラと大きなリュックをもったアニメファンたちをどう思うだろうか。//近所の学校では不審な方が最近多くなっているから気を付けようという話がでていると聞いている。」*22と述べている。それを逆手に取ってマンガの中でネタにするものもあって、例えば『らき☆すた』4巻では「小学五年生の女児が誘拐未遂」という事件に対して、「この手の事件は「お前が犯人だろ」とからかわれていた」と言う父「そうじろう」と、それに納得する娘「こなた」の姿が描かれている。


 このように、オタクに関して一般人が抱くイメージの中で「変態」「不審」「危険」といった要素は根強く、マスコミや行政といった広く影響を与える機構がそれを助長してきたといえる。それでは、実際彼らと対面した、あるいは分析した非オタの方々はどのような感想を持っているのだろうか。精神科医斎藤環は自著の中で「私と彼(=正統的な美少女アニメオタク)との対話を通じて「おたくも自分と大して変わらない」という感想を持つに至った」*23とし、その上で結論として「私はオタク的な性の形式を全面的に肯定する」*24と述べている。また、作家の中原昌也は『嫌オタク流』の中で、延々とオタクをバッシングするコメントを残しているものの、あとがきの中で、彼は「オタク、いいんじゃない。視界にいなければ......」*25と消極的ながらも認めるかのようなコメントを述べている。
 先ほど鷲宮神社の例を挙げたが、実際に2007年の12月、鷲宮神社と『らき☆すた』を絡めたイベント*26が行われた。この時、同イベントには3,500人の参加があり、大盛況のうちに幕を閉じた。特筆すべきは、このイベントに関する住民からの苦情は1〜2件程で、商工会関係者や住民の多くはファンは紳士的でマナーがよい、という感想を持ったという。これは、これまでの一般参拝客と比べても歴然だったそうだ。さらに、このイベントの成功をNHKなど、マスコミが好意的に報道し、ファンもそのような位置づけがなされることで、さらにマナーが良くなっていったという。もちろん、『らき☆すた』放映以降、鷲宮町周辺で女児と関係した事件は発生していない。
 これらの成果により、ようやく非オタのオタクに対する認識は「少し変わった趣味を持っている人」程度にまでなったと思うが、女児を狙った猟奇的な事件が起こると未だに「犯人はオタク」と報道する向きもある。このように、今まで想像されてきた「オタク像」と「実際のオタクの姿」との間には明らかな乖離があることが分かる。「百聞は一見に如かず」ということわざが示す通り、「想像されているオタク像」と「実際のオタク」は違うのだ。しかし、未だにこれを混同して議論がなされているのである。


 同じことは「萌え」という言葉そのものにも言えるのではないか、というのが私の第一の疑問である。第二章では、「萌え」という言葉が何を表しているのか、また、「萌え」に受ける印象の違いに触れながら、この疑問を明らかにしていきたいと思う。

1.4.オタクとは

 その前に、オタクについて少しだけ書いておきたい。本稿は「萌え」を扱った論文であり、オタクについては触れないつもりでいる。オタクの消費行動や精神分析は、東浩紀岡田斗司夫斎藤環他数多くの識者が言及しているし、ネット上での言及を含めると、オタクについての言説は既に膨大な量に上っている。したがって、今さら追記して言及するつもりはない。とはいえ、現在の「萌え」を作り上げる上でオタクの成果を無視するわけにもいかないため、ここでは、本論を読む上で、オタクについて必要な最低限の情報をまとめておく。


 オタクとは、主にサブカルチャーを趣味の中心にし、深く掘り下げた人々について指す。賛否あるのは承知だが、とりあえずこれくらいにまとめておこう。
 オタクの特徴はよく世代別に「第一世代」「第二世代」「第三世代」に分けて言及されることが多い。これにも賛否ある*27が、本稿ではこれに則るかたちで話を進めて行くこととする。
 オタクが生まれたのは70年代で、「第一世代」はその70年代から80年代に入るあたりまでにオタクになった者を指し、世代的には「おたく」と言う言葉が生まれる*28以前のオタクにあたる。SF小説等を読み、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』がちょうどリアルタイムで放映される時に、文化の担い手としていた世代である。またコミックマーケットの土台を作ったのもこの世代である。 代表格としては岡田斗司夫唐沢俊一などがいる。
 「第二世代」は'80から'95までの世代を指し、主にバブルが崩壊するか否かの時代背景にオタクになった者を指す。彼らは少年期に『ヤマト』や『ガンダム』を見て育ち、「何でもかんでも「オタクだ」と言って取り込もうとしていた」*29という世代である。言わば、横への広がりが大きくなった世代であると言える。代表格としては本田透や斎藤進などがいる。
 「第三世代」は'95以降に「ヲタク」になった人々を指している。この世代は『新世紀エヴァンゲリオン』で幕を開け、その後の大量アニメ、ゲーム消費時代へとつながっている。このころには莫大な作品が作られ、オタクの知識範囲が狭くなってきたという時代でもある。代表格は現代のメディアが指すオタクである。私もこの世代に当たるだろう。時代別に見ればオタクの中でも、このような世代間格差がある。
 さらに、「第二世代」から「第三世代」への世代交代が起こる際に、オタクの知識範囲が狭くなってきた。手っ取り早くいえば、「オタク」という共同体意識が薄れ、「オタクだけど俺とおまえはこんなに違うという独自性を尊びたい」*30という意識へと変化を遂げてきた。このパラダイムシフトを指して、岡田斗司夫は「オタク・イズ・デッド」と述べた。これに関しては斎藤進も「死んだのは「オタク」であり「ヲタク」ではない」と述べており、パラダイムシフトという点を強調した考察を行っている。


 以上、オタクの変遷について非常に簡単ながらまとめてみた。それでは、これを参考にした上で、第二章から先「萌え」についての話も楽しんで読んでもらえれば幸いである。

*1:乗り物にはさらに以前から興味があったことが脱稿後判明

*2:リアルなその写真は当時の私を震え上がらせた。もし、この写真からいきなり飛び出して来たらどうしよう、と。

*3:浄土真宗本願寺派

*4:ここに、知識にムラが出やすいというオタクの萌芽を見てとれるというと、少し後づけにすぎるかもしれないか。

*5:モーニング娘。を始めとする、同じつんく♂プロデュースアーティストのファンクラブ総合体

*6:2005年9月、アラビヤ語の最初の授業で、私が「口の悪い輩はヲタと呼んでもらっても結構です。」と自己紹介をした事件

*7:2006年3月、特別研修Pro.の渡航地の一つであるイエメンで、式典の途中にモーニング娘。の楽曲の振り付けを披露しようと考えた事件。未遂に終わったが、一時は本気で考えていたことを思うと空恐ろしい

*8:参考URL: http://tokyo.cool.ne.jp/kinmoo/ (閲覧日 2009/1/29) 

*9:彼の雇用状況は流動的なものだったそうだ。製造業派遣社員に関連するということで、2008年下半期を先取りするような事件ではなかったかと思う。

*10:参考URL: http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/morinaga.cfm?i=20080620c5000c5&p=1森永卓郎 2008/6/23 閲覧日:2009/1/14

*11:参考URL: http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/morinaga.cfm?i=20080620c5000c5&p=4森永卓郎 2008/6/23 閲覧日:2009/1/14

*12:これは異例な程のスピード執行だそうである。平均は8年

*13:実際宮粼がペドフィリアであったかどうかについては、鑑定に当たった医師を中心に否定の見解が述べられている

*14:確実な情報元を持たないものの、事件発生後の第36回コミックマーケットで「ここに10万人の宮粼勤がいます!!!!!」という偏向報道があったとするネット上での意見は多い。

*15:犯人はオタクではなく、日系ペルー人だった

*16:実際、DNA鑑定により犯人が男性であると確認される前から、情報を求めるポスターでは「冷酷で惨忍な男」という犯人像が描かれていた。オタクは女性にもいるのはもちろんだが、世間がオタクと言われて先に想像するのは男性である

*17:この問題に対し、本田透は「少女誘拐事件などが発生すると、まずテレビのコメンテーターが「犯人はオタクに違いにない」(中略)などと言い出す。彼らは、たとえ逮捕された容疑者にそのような趣味がまったくなかったとしても、決して謝らないし訂正もしない。」(本田透 2005 p.36)と述べ、厳しく非難している。これには私も同調する。

*18:確実ではないが、猟奇性を目立たせるように報道がなされているといった感もある。

*19:参考URL:http://www.shomei.tv/project-213.html 2009/1/29現在も募集中 閲覧日 2008/12/1

*20: 参考URL:http://wolf.picotips.com/word/%A4%B3%A4%F3%A4%B3%A4%F3%A4%CE%BB%F6%A4%C0%A4%AB%A4%E9%A4%B3%A4%F3%A4%CA%A4%CB%B8%C0%A4%A6%A4%F3%A4%C0%A4%BE 閲覧日 2008/12/25

*21:ただし、隣の久喜市在住

*22:参考URL:http://kuki-shimin.com/archives/219 閲覧日:2008/12/31

*23:斎藤環 2000 p.68

*24:斎藤環 2000 p.340

*25:中原昌也他 2006 p.224

*26:なお、このイベントに関する記述は「山村論文 2008」に詳しい。本稿でも同氏の研究論文の記述を一部改変の上、引用している

*27:例えば、斎藤進は(参考URL:http://d.hatena.ne.jp/eal/20090118/p1)の中で、また違う分け方をしている。

*28:「おたく」という言葉の初出は1983年漫画ブリッコでの中森明夫の「「おたく」の研究」

*29:岡田斗司夫唐沢俊一 2007 p.119

*30:岡田・唐沢 2007 p.195