そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

コラム1......男性性のないコンテンツ~何故『らき☆すた』は大ヒットしたか

さて、2.3.の『萌える男』の引用の中で「乙女回路」という話があった。これは「心の中の「乙女」の部分を掘り起こして刺激を与える」*1ことで作動する「萌え」感情の発動拠点とされているものである。これ
を軸にして、本田は「萌え」による「「脱・男性性」「少女化」」*2が起こることで、「「愛する対象と同一化したい・同じ立場に立ちたい」」*3という意思がはたらき、すなわち平等に近い立場を築くことができる、としている。
 こういった「同じ立場に立つ」=「自らを少女化する」という考えが確立されたのはごく最近のことである。初期の、まだ「萌え」感情が言葉として表れなかった頃、この感情面を満たす方法として使われたのは、戦闘によって少女心理に踏み込んでいく方法であった。「われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する」*4という仕組みによって、自らの「同一化したい」という感情が満たされていたのである。その例は60年代の『ウルトラマン』や『パーマン』から現在放送中の『プリキュアシリーズ』まで枚挙
に暇がない。


 これが、「萌え」の第一パターンなら、次に現れてきたのが男女関係によって入り込む方法である。これは前の例と比べ、より現実的な視点から「萌え」感情を満たすことができる。最近のアダルトゲームや萌え系アニメの隆盛はまさしくこのニーズにベストマッチしたからであろう。ところが、アダルトゲームにおける最終的な目的――攻略キャラクターとの性的関係の樹立――は「同一化」への方法になりこそすれ、「脱・男性性」という目的からは最も離れてしまう。こういったディレンマがつきものであった。
 しかし、このエロスをも介在させることなく、少女心理の内面に入り込めるような作品が現れだした。転機となった作品が、あずまきよひこの『あずまんが大王』である。女子高生の何気ない日常を描いたこの作品で、あずまは主人公と同年代の男性キャラクターを極力登場させず、作品内で恋愛関係をいっさい出さなかった。本田が言うように、オタクたちを「恋愛関係に絶望した者たち」と捉えると、いくらキャラクターであっても彼女たちと恋愛関係にある男性キャラクターがいるということは、恋愛資本主義の再想起に繋がり、自らをいっそう惨めな目に追いやってしまう。そして、時には強い反発として現れることもある。実際、武梨えりの『かんなぎ』では、ヒロインに主人公とは別の恋人がいたことが作中で描かれた途端に、ファンによる非難が殺到した挙げ句、無期限の休載に追い込まれてしまった。
 アニメや漫画作中のヒロインが恋愛関係を持っていないというのは、彼女たちもまた「恋愛資本主義に毒されていない女性」と考えることができる。恋愛資本主義と無縁のところで生きているという状況とは、オタクたちとっての理想郷であり、それを体現してしまった世界観と女性の「純正性」こそ、求める「萌え」に繋がる重要な要素であることが分かる。
 その一方でオタクたちにとって「恋愛模様のない女子高生」という属性は最も自己へと取り込むのに難しい属性である。なぜなら、自分の経験と価値観、心理的距離とは最も離れている(という気がしている)からである。だからこそ、エロスを介在させるために多くのアダルトゲームが作られた訳だが、『あずまんが大王』ではその替わりに優れたギャグをエピソードに組み込むことで、ギャグを通じて彼女たちの普段に入り込んでいくという道を拓いた。これによって、より純粋な「萌え」を確立することができたのである。
 しかし、これ以降純粋な「萌え」の視点で描かれた作品はいくつかあるのだが、いずれも『あずまんが大王』ほどの成功には至らないものであった。作品の多くは女性同士の関係性のみで語りきられたもので、ギャグなどを通じて一度少女化への導入の手段を手に入れたオタクにはともかく、それにまだ至らない層にはやはり何らかの導入の手助けとなるものが必要であった。そんな中現れたのが美水かがみらき☆すた』である。


 エピソードのほとんどが「恋愛模様のない女子高生の日常生活」を描いており、既婚者や恋愛関係にある者がいるにはいるが、ほぼ全編を女性だけで書ききっている。この「恋愛模様のない」という部分は重要で、これが「萌え」に繋がる重要要素であるというのは先程述べた通りである。
 しかし、これだけでは今までの作品と何ら変わった部分はない。また、『らき☆すた』にも優れたギャグの利用、特にパロディの利用が顕著であるが、それはこの作品独特の世界観を作り出すまでには至ってない。ここでキーとなるのは「泉こなた」の存在である。「こなた」はオタクとして、男性のオタクと似た発想をし、行動を行う。*5そこで読者は「こなた」の視点から『らき☆すた』世界へと入り込むことができるのである。ここに「同一化」と「少女化」という2つの要素を満たす理想的な形が体現されるという訳である。


 つけ加えると、登場キャラクターが時間的経過の中で劇的成長を遂げているわけではないという部分もヒットの一因となっている。実際のところ、我々は様々な外的要素から日々進歩を求められており、その要求に応えきれないというストレスを抱えている。一方で、創作物で描かれる主人公の劇的な成長のようなものは、現実では望むべくもないと考える人は多い。結果的に彼らは成長を多く求められていない立場への羨望、ひいては彼らとの「同一化」を望んでいる。そして、『らき☆すた』世界との同調は、そんな我々のストレスを、消極的にではあるが解消させているのである。

*1:本田 2005 p.16

*2:本田 2005 p.151

*3:本田 2005 p.155

*4:斎藤環 2000 p.330

*5:例えば、パトリシア・マーティンに「こなたは男の子萌え、私は女の子萌えです。」と話すシーンがある。また、「かがみ」に「発想がオッサンだ。」と突っ込まれるシーンが何ヶ所か見られる