そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

第五章「萌え」が語りだす現代社会のひずみと精神病理

 第五章では「萌え」という現象が現代社会のどういった歪みや暗部を語っているか、また、その解決策はあるのかという部分について言及していく。

5.1.「とにかくおまいら外に出てみろ」

すまん。俺も裏ぐった。
文才がないから、過程は書けないけど。
このスレまじで魔力ありすぎ...
おまいらにも光あれ...
>>734
違うけど。でも大チャンス
こういうこと続くとネタにしか聞こえないよな
とにかくおまいら外に出てみろ

*1
 2004年、インターネットの電子掲示板「2ちゃんねる」から一つのラブストーリーが生まれた。主人公のハンドルネームを基にして『電車男』と名付けられたストーリーは、その後様々なメディアへとリミックスされ、オタクという存在を広く知らしめることとなった。オタクと一般女性との恋愛というアンバランスさと、オタクである「電車男」が他の掲示板参加者のアドバイスや相手の女性の応援を受け、自己を改善しようと努力していく様、さらには、自分自身も恋人のいないモテない男を含む掲示板参加者たちが、見ず知らずの他人の恋路を懸命に応援する姿が読者の共感や感動を呼び、日本中に一つのブームを巻き起こしていった。
 その後、この話は本当に実話なのか、「オタク=萌え=アキバ」のイメージが浸透してしまった、2ちゃんねるにマナーの悪い新参参加者が増えた、などという様々な疑問や問題を引き起こしてしまったという副作用はあるのだが、とりあえずそれは横へおいておこう。今は話題になることではない。私がここで取り上げたいのは「おまいら外に出てみろ」の一言である。
 冒頭の引用は「電車男」の最初の書き込みと2回目の書き込みである。いきなりの書き込みがこういった内容だが、「電車男」はいったいどういうつもりでこう言ったのだろうか?これにはまとめサイトで興味深い疑問が呈されている。「まだ何も始まっていないのに、のっけから「とにかくおまいら外に出てみろ」と勝利宣言」*2と、いうのである。「外に出てみろ」という一言がどうして勝利宣言となると言うのだろうか。逆に「内」とはどうなるのだろうか。これは単純に、外出と引きこもりの関係とは考えにくい。「おまいら」と呼ばれる他の掲示板参加者が全て引きこもりとは考えられないからだ。つまり、物理的な内外の区別とはならない。すると、物心二元論の立場から言うと精神的な内外の区別という話になる。精神的に「外に出てみろ」とはどういうことなのだろうか。
 また、『電車男』を強く批判している識者の一人に本田透がいるが、彼はその理由として次のように述べている。「『電車男』は萌えオタクという新システム側の人間を、恋愛資本主義という旧システム側に取り込んでいき、恋愛資本主義の勝利を謳いあげる物語である」*3しかし、本当にそうなのだろうか。確かに、4.3.のスキー場デートの例は「恋愛資本主義の勝利を謳いあげる」と言えるだろう。しかし『電車男』の中にはそこまであざとく描かれている部分はない。確かに、美容室に行き、服を買い......という描写と、そのせいで「お金が足りない」という表現はいくつか見られる。だが、こうやってお金を使わせるというあざとい戦略はまったく描かれていないし、もし美容室に行き、服を買いという部分をも否定されるのであれば、「エルメス*4に似合いの男になるとする「電車男」の変わろうとする努力も、否定されることになってしまう。これでは、恋愛資本主義に属す属さないにかかわらず、恋愛関係そのものを否定することになる。「恋愛には自分の価値観をいったん白紙に戻して、相手とともに新しい世界を築く心積もりが必要。」*5と大平健も述べているし、恋愛幻想はレゾンデートルを「相手に与える」という意味において、自己幻想とまったく異なる方向にレゾンデートルのベクトルが働くようになる、ということからもお分かりだろう。つまり「外に出てみろ」とは「外」というまったく異なる世界に出て、新しい世界を築く心積もりが必要という促しの言葉なのである。


 また、萌えコンテンツの多くが、恋愛関係の樹立をゴール地点としてることも踏まえておくべきだろう。前述の『電車男』もそうだが、本稿でとりあげた『げんしけん』や『おとボク』なども恋愛関係の樹立を持ってエンディングとなっている。これは、ストーリーのある戯曲として、ストーリーの中で主人公が成長していることが求められる。それは、主人公の成長が我々のカタルシスを促すからであるが、その成長をわかりやすく量るかたちとして、恋愛関係の樹立という手法がとられていると考えられる。つまり、恋愛関係を樹立するということは人間的に大きな成長を遂げるものである共通認識があるということになる。ところが、それを遠ざけているというのでは、結果として人間としての成長をも放棄しようとしていることにはならないだろうか。


 「萌え」が語りだす現代社会の精神病理とは、例えばこういうことである。他人に対して積極的な干渉を避けようとする風潮は、既に前から指摘されてきた。*6それが「萌え」の出現で一気に増加し、またよく見える社会現象へと変化した。社会現象が「萌え」によってわかりやすくなり、現代人の社会問題として認識されることになったのである。我々は「萌え」をしばしば矮小化して嘲笑しようとしているが、「萌え」によって起きている問題は、実は社会問題そのものである。「嗤ってる場合じゃないですよ」というのが、第五章のメッセージである。
 なお、「外に出てみろ」という言葉だが、この言葉はこの節のみならず、第五章を解く上でキーワードとなる。それを踏まえて進めていこう。

5.2.レゾンデートルとアイデンティティ

 4.5.の一つ目の問いに答えよう。

  1. レゾンデートルとアイデンティティは双方とも自分の存在を扱った用語だが、その違いはあるのだろうか。

 レゾンデートルについては3.2.4.で初出して以来、本稿では一貫して「人間としての存在意義/証明」という意味で使っている。一方、アイデンティティは今初出した。アメリカの発達心理学エリク・エリクソンの発見した概念"ego-identity"という言葉が元になっており、今や外来語として一般常識の範疇にまで入ってきた言葉である。面白いことに、"ego-identity"が小此木啓吾らによって日本語訳され、またエリクソンの著作『自我同一性』が出版されたのが、日本におけるポストモダンのスタートと言える1973年であった。それ以降、「自我同一性/アイデンティティ」は、自身が持つ少しペダンチックな響きと、若者が求めてきた「自分探し」にマッチする言葉として社会に浸透してきたのである。
 アイデンティティも、レゾンデートルもこだわればそれだけで一生かかっても解き明かせない問題へと発展してしまうので、ここではアイデンティティを一般的によく言われる「様々な社会の中での自分での役割を認識し、自分独自の証明をできる限り取得して、自分をただ一つのものへと作り上げようとする」行為と定理しておく。つまり、「自分独自の証明を取得」という部分において、アイデンティティは「自分探し」だといわれると考えておく。さて、そんなアイデンティティをレゾンデートルと混同して、両者とも「自分探し」であると認識している例は多い。しかし、両者はまったく違うものである。レゾンデートルは「人間として」の存在証明であるのに対して、アイデンティティは「人間としての自分」の存在証明である。わかりやすく言えば、「レゾンデートルの喪失」とは家そのものを失い、住むことさえ見失った住民であるのに対して、「アイデンティティの喪失」とは家はあるものの、どこに住んでいたかを見失った住民なのである。前者はいることさえ保証されていないのに対し、後者はいることは保証されている。しかし、どこにいるかは保証されていないという状態の違いがある。このように考えると、実はレゾンデートルの保証があって、初めてアイデンティティの有無についての議論ができるということが分かるだろう。
 73年というアイデンティティの概念が日本に導入された年に、同時に我々は「大きな物語の凋落」によってレゾンデートルも失ってしまった。したがって、日本人は先にレゾンデートルを回復しない限り、アイデンティティについて論ずることはできなかったのである。ところが、レゾンデートルの問題をうやむやにしたまま、我々はアイデンティティを探しにいくという、無謀とも思えるミスをしてしまった。


 我々がレゾンデートルとアイデンティティを混同し、そのせいで不幸になってしまう理由は、同じ存在証明を表すものながら、レゾンデートルが絶対的な存在証明を保証するものに対して、アイデンティティは相対的な存在を証明するという違いに隠されている。したがって、レゾンデートルはアイデンティティに容易になりうるが、その逆は「外側」の可能性をすべて捨象しない限りありえないという点にある。レゾンデートルを保証していたものが、ある日アイデンティティに変わる。それによって、今まで自分の存在を肯定し保証してくれていた存在が、単に自分飾りのアクセサリーに過ぎない存在へと転落するのである。典型的なのは恋愛と恋愛資本主義との関係であろう。恋愛という、お互いの存在を認めあい保証しあうレゾンデートル的関係は、恋愛資本主義が導入されるに従って、他のカップルよりよい、友人よりいい男、いい女という比較の観点が備わって、そのお互いの価値が相対化されるようになった。すると、恋愛関係もまた、単なるアイデンティティ保証、すなわち「3高、別嬪......」という自分をより飾ってくれる存在に落ちぶれてしまったのである。


 岡田が「オタク・イズ・デッド」と述べたのは、オタクという属性が「○○オタク」に細分化されて、新たなオタクの定義が生まれ、「オタクが個人的アイデンティティになり、誰かがオタクを代表することはできな」くなってしまったため*7と述べている。「オタクだけど俺とおまえはこんなに違うという独自性を尊びたい」*8という考え方は、オタクの中でのアイデンティティを作り上げようとした結果である。これは、確かにオタクの中でのアイデンティティを作り上げる試みとしては成功したかもしれない。しかし、その代償はあまりに大きく「これはもうすでにオタクという姿勢ではないんですよ」*9と、オタクの瓦解が証明されてしまったのである。


 一方「萌え」には、キャラクターを解体し分析するという視点が早くから備わってきた。「「萌える」という消費行動には、(中略)対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている」*10東浩紀が述べているように、「萌え要素」という観点から常にキャラクターは解体されてきた。ところが、そのデータベースは共有されたもので、そこからシュミラークルを取り出してくるのは個人の自由の範囲内だった。4.5.では、意思を挟み込んで、とも書いている。問題は近頃、データベースのほうに手を出し始めたという点にある。データベースを解体しようとしたという行為である。その例が「メイド萌え」「アニメ萌え」「アイドル萌え」......という言葉の数々である。
 データベースはもともと「萌え」で一つだった。ところが、「メイド萌え」「アニメ萌え」と区切ることで、「メイド萌え」のデータベースと「アニメ萌え」のデータベースという風に、分かれることになってしまったのである。もちろん、両者に同じ属性が格納されている可能性は多分にある。しかし、それらは相容れないものとしてはっきり区別されることになった。つまり「萌え」の中でのアイデンティティを作り上げようとした結果、もはや一つの「萌え」ではなくなった。それは以前から多く指摘されていたことであるし今これは「萌え」がもともとそうなりやすい性質を持っていたからだろう、と言えばそうだ。それは、以前から数多く指摘されたきたことであるし、今さらとやかく言うつもりは無い。また、新たな発見でもない。私は、むしろ解体するとはこういうことだというのを「萌え」を通じて認識し、社会への警鐘としてフィードバックしたいのである。


 恋愛資本主義の例でも述べたが、レゾンデートルがアイデンティティへと変化するとろくなことが起きない。「人間としての存在証明」が「個としての存在証明」へと変化することは、実は社会の中で自分自身を相対化してしまうという行為である。そのため、自分が周りと同じく人間であるからこそ大切であるということを忘れて、自分の立ち位置ばかり気にするようになるのである。やれ、幼なじみは東大に行った、医学部に行った、従兄弟はみんな結婚したなどと...... その究極が「一人でなければならない」という思想であり、「もともと特別な Only one」とミリオンヒットの歌詞にまで使われるようになったのである。*11


 この「自分が周りと同じく人間であるからこそ大切である」ことを、イスラーム法学者の奥田敦は「すべての人間が人間であるというただそれだけの理由によって等しく尊重され、付与される人権」*12と述べているが、これが社会相対化現象の中で忘れ去られようとしているのは、最も卑近な例から見ても明らかだ。「自分が周りと同じく人間であるからこそ大切である」という意識の欠如は、究極的にいえば、人間共同体そのものの崩壊に繋がる。岡田の「オタク・イズ・デッド」をもじると「ヒューマン・イズ・デッド」になってしまい、何とも恐ろしい話になってしまうのだが、既に卑近な部分を端としてその兆候が見られる。
 別に、アイデンティティで区切るという方式事態が悪なのではない。ただ、区切ったアイデンティティに影響されて、そこで優劣や違い、挙げ句「だから私の方が偉い」などと差別化させることが問題なのである。そして「いや、それでも同じ人間でしょ」という人間共同体としてのつながりの意識を忘れてしまうことが問題なのである。アイデンティティに拘泥すると、そうなう危険性が高いからこそ危険である、と主張しているのである。
 後から来た人に区切られて、勝手に共同体を分けられる。実は「萌え」もオタクも現代も、同様なのではないだろうか。

5.3.大きな物語の凋落とは?

 4.5.の二つ目の問いに答えよう。

  1. 「「内在的他者と超越的他者」とのカオスが起こりうる」と3.2.1.では触れたが、両者の境界線はどうやって区切られるのだろうか。

 70年代にポストモダンを迎えた日本では「大きな物語が凋落した」と歴史の中で述べた。しかし、そもそも「大きな物語」は凋落するものなのだろうか。ジャン・リオタールが「大きな物語」と称したのは「イデオロギーの体系」であるため、確かに、「共同幻想」や「理想の社会」は凋落したと言っていいだろう。


 ここで「萌え」は「大きな物語」である。という仮説を立ててみたい。まず「萌え」が信仰であるという話は2.5.で述べた。また、今でも「萌え」のイメージは決して良いものではなく、市民権を勝ち取ろうという闘争が起こっているのも事実である。ということはある種の「イデオロギーの体系」を有した活動といえなくもない。また「社会システム(=思想、政治、経済など)の働きによって社会が運営される」という部分だが、社会システムとはイデオロギーが具体的な形になって国民を統制しようとするものといえる。「萌え」が具体的な形になったものがシュミラークルで、シュミラークルによってデータベースにアクセスすることができ、「萌え」という感情を抱けるようになる。また、シュミラークルの働きによって、「萌え」の範囲は有機的に拡張する。日夜放映されるアニメが「萌え」のある層を支えているのは間違いないからである。と考えると「「萌え」は「大きな物語」である。」と言えないだろうか。


 もちろん、私はこれを真っ向から主張するつもりはない。ここで言いたいのはリオタールの述べた「大きな物語」は容易に相対化されうるということである。それは「萌え」がそうだったように、イデオロギー体系によって支えられていた「大きな物語」もまた、容易に相対化しえるのである。だから「大きな物語の凋落」というのはショックでもなんでもなく、時代の流れとともに起こるべくして起こった現象に過ぎない。つまり、それだけ脆いものだったのである。
 さて「萌え」は脆い構造性を持つ、ということは3.2.2.で話をした。そして、今上げたように「萌え」は「大きな物語」といえることから「イデオロギー体系」も脆い構造性を持っていた、という。先ほどとも述べた。となると、今度は「萌え」の持つ不都合性は「イデオロギー体系」の不都合性と近似のものになるのではないか、という仮説が生まれる。確かに社会主義経済を例にとってみると、目先の「革命」や「経済成長」といった景気のいい言葉の裏で、実態と結びつかない経済があったが、人は「見える」実績にとらわれていた。また、まさに今の経済危機は資本主義の見えない部分*13が齟齬を来したのではないかと考えると、多少強引ながら、これも仮説を裏付けるものになる。しかし、だとすると、イデオロギー体系もまた、「大きな物語の凋落」の過程で発生したのだろうか。そうというなら、イデオロギー体系が「大きな物語の凋落」から生まれたとは、いったいどういうことだろうか。


 ここで、少し目先を変えて、改めて「外に出てみろ」という言葉の真意を探ってみる。「萌え」が「大きな物語」だとすれば、「萌え」は自己幻想の一種であるために、自己幻想の世界もまた「大きな物語」を構築しうる。また、自己幻想とまったく違う方向にレゾンデートルのベクトルと向かわせることが、恋愛幻想には必要という話も5.1.で述べた。そして、その行為こそが「外に出てみる」という行為であるとした。ということは自己幻想という「大きな物語」の「外に出てみる」行為は、実は恋愛幻想という新しい「大きな物語」に突入する行為だと言うことができる。逆に言えば、自己幻想の「大きな物語」の外側に恋愛幻想の「大きな物語」があるという構造性が見いだせるのである。*14

 さらに目先を変えて、自分自身がいったい何者かということを考えてみる。先ほど、アイデンティティの危険性について述べたが、それに気を付けながら、自分自身を肩書き解体してみよう。そして、分類範囲としての大小を考えて、
界:動物界
門:脊索動物門
綱:哺乳綱
目:海牛目
科:ジュゴン
属:ステラーカイギュウ属
種:ステラーカイギュウ
のように上から順に並べてみると、自分自身がどういう立場として今ここにいるのか、わかりやすくなる。*15ここでは便宜上、私を例にとってみる。*16
 まず、私は「コクセンナオカ」である。と言える。この個人としての肩書きは、私が生まれてから死ぬまで有効だろう。次の肩書きは「國仙家」という血縁の肩書きである。私が一生童t(ryのままでは大変切ないことになりそうだが*17少なくとも、個人という肩書き以上には残るだろう。その上にくるのは「日本国民」という国家の肩書きである。日本はもうすぐ滅びるんじゃないかという懸念もあるが、少なくとも血縁という肩書き以上には残るだろう。次にくるのは「日本民族」という民族の肩書きである。日本国民と同じじゃないか?という疑問もあるかもしれないが、江戸時代には国民という意識は希薄だったろうし、もっと昔では熊襲、坂東などと分かれていた時代もあった。でも、当時同じ日本民族だろうということで、少なくとも、日本国民という肩書き以上には残るだろう。次にくるのは「人間」という種の肩書きである。ここまで来ると残る残らないでどちらが長い短いの検証をしなくても大丈夫だろう。人間の上にくるのが「生命体」という存在の肩書きである。そして、見える範囲で最も広いのが、この宇宙上にいるというこの世の肩書きである。まとめると、以下のようになる。
宇宙:この世
存在:生命体
種 :人間
民族:日本民族
国家:日本国民
血縁:國仙
個人:コクセンナオカ


 逆に今まで出てきた幻想概念、つまりレゾンデートルの保証装置であり、それを支えているものを当てはめてみようとする。例えば「萌え」は自己幻想であり、私が想起しようかどうかで決まるので、その範囲は個人に特定される。対人幻想は恋愛など、人と人との物理的な繋がりを示唆しているので、血縁のところがふさわしいだろう。イデオロギー体系は紛れもなく国家に特定される。同様にして、民族以上も考えていくと、まず文明という概念が民族で起こったと考えるのは自然である。文明のおかげで、民族としての誇りや帰属意識というのは支えられている。次に、人間を考えると、それは人権だろう。先ほども「すべての人間が人間であるというただそれだけの理由によって等しく尊重され、付与される人権」*18としたとおり、人権は人間に必ず付帯される物であり、逆に人権という概念が人間を支えている。生命体を支えているのは、自然を大切にしよう、という自然崇拝的立場だろう。そして、この宇宙を支えている概念は様々あろうが、私たちにとってわかりやすいのは、お天道様という存在である。そこで、先ほどの表とこの概念とを多少強引にだが一致させてみる。
宇宙:この世:お天道様
存在:生命体:自然崇拝
種 :人間:人権
民族:日本民族:文明
国家:日本国民:イデオロギー体系
血縁:國仙:対人幻想(恋愛幻想)
個人:コクセンナオカ:自己幻想(「萌え」) *19


 さらに、最後に加えたい概念がある。それは「外に出ろ」から発展して考えた「自己幻想の世界の外側に恋愛幻想の世界があるという構造性が見いだせる」という概念である。上の表を見ると、血縁が個人の上部構造として位置している。また何者かと分類した際、血縁は個人という肩書き以上には残るとも述べた。つまり、それだけ包括性があるといえる。その傾向から言えば、上へ行くことは「外に出る」ということになり、上へいけば行くほど、より包括的になると言えることになる。
 逆に下を見るときは、その下部組織が相対化できるかどうかを考えるとわかりやすい。外側から下部組織を見ることによって、それは他の下部組織などと比較相対的に見ることができるからである。例えば、イデオロギー体系の中で個人は相対化される。大日本帝國下では、天皇の元に臣民が皆従うという構造性があり、この構造においては個人というものは相対化された臣民Aでしかなかった。
 この分類の中で自分の肩書きが設定する自分の立場というのを、私は「次元」と称したい。空間上では三次元が自分自身の位置を決めるように、この世の中ではこれら七つの次元、七次元が自分自身の位置を決めているのである。もう少しわかりやすくいえば、中心に個人という円があり、そのまわりに血縁の円があり、そのまわりに、国家の円があり......という風に一つ前の円を取り囲むように、徐々に大きな円になっていく。そして、何らかの形で内側の円から外側の円へと移動することが「外に出る」ということになる。こうすると視覚的にも「外へ出る」ということが分かりよいのではないかと思う。


 このように考えると、例えばイデオロギー体系を「大きな物語」としたのは、実は大きくもなんでもないことが分かる。確かに、当時は全てを規定する「大きな物語」としての価値を持っていたかもしれない。しかし、今となってはそれもまた相対化される、統治方法論の一部でしかないということである。増してや「萌え」など、一番狭い範囲の肩書きしか持たない。これが「萌え」に関して卑近というキーワードを使っていた理由である。
 そして、この七次元構造のなかでは、上に行けばより包括的になり、下に行けばより相対化されやすくなる。そのかわり、上は感じにくく、下は卑近で感じやすい。「萌え」という信仰活動が大変残念なのは、一番相対化されやすいという側面の存在である。そのかわり一番卑近で、今でも十分感じようとすることができるため、「誰でも萌えられる」のである。*20
 また、この七次元構造を考えることは「内在的他者と超越的他者」の区切りのヒントにもなる。内在的他者とは感じている次元以下にある次元、超越的他者とは感じている次元より上にある次元のことを指す。つまり、その次元より上にあるものが自分にとっての超越的他者で、以下にあるものが自分にとっての内在的他者となる。例えば、イデオロギー体系を例にとれば、国民やその国民の関係性は他者ではあるが、システムを包括的に機能させられる内在的なものになる。一方で、民族という括りはイデオロギー体系を凌駕する超越的他者だといえるのである。だとすれば、宇宙は究極的な超越的他者なのだろうか......?しかし、以下も内在者だと言うのだとすれば破綻を来す。それに、先ほど調子よく円を7つ書いて最後に宇宙の円を書くことになったのだが、宇宙の円の外側は何だろうかという疑問が当然呈されるだろう。


 実は七次元構造に留まらないのが、この理論の最後のポイントである。さて、もう引っ張るのも止めにしよう。いよいよ、本稿が佳境に入ってきた。

5.4.「外」とはどこか、「出る」とは何か

 さて、前節で七次元構造の中で我々は生きているという話をした。より大きなものを見ることで包括的になり、一回り大きな同心円のフィールドに立つことを「外に出る」と称した。そうすることで、内側の円を相対的に見られるし、視点も広まる。また、外側の円は内側の円のフィールドも兼ねているのだから、それほど気負わずに「外に出る」こともできる。「外に出る」ことで何かを捨てる必要もない。しかし、疑問はまだ晴れないままだった。宇宙は究極的な超越的他者なのだろうか、という疑問である。


 超越的他者を考えた人という話をここで少ししておこう。実は、本論中にて既に言及した識者なのだが、この展開の中で改めて紹介してみると、また違ったものが見えてくるのではないかと考えるためである。江戸期国学の大家、平田篤胤は「人間は現世を去っても、地上の我々の見えないところに霊魂が残る。それは永遠に生き続け、霊界から現世の様子が見てとれる」*21と述べている。これによると、我々には見えないが、現世の様子が見てとれるという場所があるという指摘がなされている。同じようなことは明治期の僧侶、清沢満之も述べている。彼は「無限・有限」という観点を編み出し、「無限」の極致が阿弥陀仏であり、阿弥陀仏に「絶対無限者」という位置づけを見いだした。そして、これを確実な立脚点とし「眞理の標準や善惡の標準が、人智で定まる筈がない」*22と述べた。これによれば、無限と有限という二つの世界があり、そこから判断がなされているとした。両者とも、我々が見えないが向こうからは見える、しかもそこから判断されている世界がある、というのである。
 これもまた、七次元構造の中に浮かべると、確かにこの構造のどこかには当てはまりそうな気がする。しかし、いったいどこに当てはまるのか、と考えると定かな答えは見いだせない。宇宙上だって、見ようと思えば見られるのだ。と考えると宇宙の円の外側に何かヒントがあるような気がする。


 次に、宇宙の話を少し。アルベルト・アインシュタイン特殊相対性理論によって、重力がなければいかなる慣性系でも光速度c(=約30万km/s)は一定であるということが分かっている。また、ビッグバン理論より、宇宙の始まりはある一点の状態から膨張し続けている、ということになっている。*23すると、光もまたその一点から放たれ始めたということになる。
 ところで、人間の視覚とは網膜で光を感じ、それを視神経が脳に伝えるというかたちで認識がなされる。したがって、光がないと視覚は失われ認識できず、見えないということになる。また、光が目に届くまでの間は光がないのと同様なのでやはり見えないということになる。普段の生活の中では約30万km/sで進む光が目に届くまでのタイムラグというのは無視できる問題だろうが、膨大な距離が離れていれば、光線が届くまでにタイムラグが発生する。例えば、太陽から放たれた光は約8分20秒かかって地球に到達している。つまり、今見ている太陽は実は8分前の太陽なのである。
 そう考えてみると、光がまだ到達していない部分というのが、あることにならないだろうか。さらにもしビッグバン理論が正しければ、そして風船が膨らむかのように膨張し続けているならば、その外側はあるのではないか、と考える方がむしろ自然である。


 そして、膨らみ続けているのにも関わらず、外側があるというイメージモデルも、実は「萌え」によって説明がつくのである。第二章で「萌え」は膨らみ続けているという話を述べた。「大きな萌え」そのものも拡大を続けているし、その核となる要素のデータベースは日々シュミラークルとの有機的相互連関で、やはり拡大を続けている。にもかかわらず、その外側には対人幻想があると述べた。もし拡大するばかりでは、いつか対人幻想の円を超えてしまうのではないかという疑問は当然湧くはずだ。なぜこのような奇妙なパラドクスが起こるのだろうか。
 実は、拡大をしているのは、要素のアイデンティティである。「相対化してしまうような奇妙に冷静な側面」*24東浩紀は述べたが、データベースの中で要素はアイデンティティを伴い、限りない細分化と相対化をなされるのである。なるほど、これなら一つのものに何億の名前と属性を与えようと、ものは一つで変わらないのである。同じようなモデルがシュミラークルにも言える。つまり、同じ円の中で区切りは無限に行われているのだけれど、円自体はまったく拡大していないのでした、というトリックだったのである。つまり、このトリックが成立すれば、宇宙の外側が覆い尽くされることはないという論が成り立つ。
 そこで、宇宙が限りない相対化をなされているという証拠があればよいことになるが、実際のところ、宇宙は相対化されることが多い。例えば、多神教という考えがまさしくそうである。まず、多神教の神が立脚していた場所は生命体と宇宙の間のどこかだろう。彼らは「産む」という行為において生命体的であるし、一方生命体を越えた奇跡をたびたび起こしたきたという点では*25宇宙的でもある。しかし、ある一つの世界を舞台にして神話が進んでいるところを見ると、宇宙上のどこかにいたということも言えるのである。その上で、多神教の中の一つの「神」を信じることを単一神観というが、単一神観の乱立はたちまち神の相対化につながった。内村鑑三はこの相対化を「神々が多種多様なことはしばしば甲の神の要求と乙の神の要求との矛盾をもたらした。」*26と苦悩として綴っているが、宇宙というのは神の相対化を受け、どんどん切り刻まれている。したがって、宇宙もまた無限に区切られているのだけれど、宇宙自体はまったく拡大していないのでした、というトリックが成り立つ。つまり、宇宙は拡大せず、外側が消失することはないのである。


 いよいよ、宇宙の外側があると言わざるを得ないという部分にまでなって、最後に一神教的な立場の見解 を述べておこう。イスラーム聖典クルアーンではこのようにくだされている。<<天と地の大権は,かれの有である。かれは生を授け,また死を授ける。かれは凡てに就いて全能であられる。かれは最初の方で,また最後の方で,外に現われる方でありまた内在なされる方である。かれは凡ての事物を熟知なされる。>>(鉄章 2・3)ここで言う最初とは、ビッグバンではない。ビッグバンさせたのが神だとすれば、その前に存在しなければできない、ということになりビッグバンの前からいることになる、それこそ宇宙円の外側である。逆に、今描いている七次元構造と宇宙円の特質とこの章句は矛盾せず、今まで上げてきた理論とも矛盾しないのである。宇宙を相対化できるのだから、宇宙に対して全能だろうし、その周りを囲うので最初と最後には必ずいるに決まっている。宇宙円の外側なので、外にも現れるし、内側の円のフィールドも兼ねているので、内在もする、宇宙を相対化して見ているので、もちろんすべてを熟知なされる。という風に。
 したがって、これら4つの概念から言えることは宇宙の外側に何かがあって、それは消えることがない、ということである。なお、この何かというのは、もし二進法で考えた場合、ONということになるから「1」という扱いになる。一神教の一とは、このONを表した「1」なのである。と考えると、一神教に対する見方も少しは変わるような気がする。


 ということで、宇宙の外側には何かがあった。ここで、私も便宜上あったということで「1」としておこう。そして、究極的な超越的他者とは実はこの「1」のことである。さらに言えば、究極の「外」とは宇宙の外側、つまり「1」のところであり、「外に出てみろ」という言葉で想起される究極の目的地「外」は、実は「1」のところなのである。
 そして、この「1」から見る視点は宇宙上からの影響を受けることなく、宇宙上のあらゆるものを相対化することができる。これは、今我々がいる宇宙上に限らない。分かりやすく言えば、この世のみならず、あの世も相対化することができる。さらに、その両方の世界で「1」が人間としてのレゾンデートルを保証してくれる。それは、この世とか、あの世とか、生や死も超越した永久のレゾンデートル保証である。ここで、改めてレゾンデートルについて考えてみると、目的は「自分が必要とされていることを忘れない」ということだったが、実は完全なレゾンデートルというのは、レゾンデートルが永久に保証される、という確証があって初めて成立する。それがなければ、あくまで現世の間のみのレゾンデートルが保証されるに過ぎない。これでは「死んだらどうなる?」という究極の答えに答えることができない。
 さて、こうなるとこのような疑問を抱く人もいるだろう。「「萌え」は結局ダメでしょうか?」という疑問である。私自身は次のように解釈している。「「萌え」てもいい。けれども「外」に出れればもっといい。」と。「萌え」も、卑近ながら自己幻想、ひいては「1」への道の第一歩に繋がっているのである。だから、その時点で十分いいのである。外に出ようと思えば外に出られるし、それも自由なのだ。ただ、どうせならフィールドは広い方が、より包括的な考え方を生み出すことができる。その意味において「もっといい」と思うのだ。何せ、最終的には死をも相対化できるのだから。


 こういう考え方が現代では求められているなと思う一方で、「てもいい」という精神が失われつつあるなと思うのが私の危惧であり、実はここで少しだけ足を伸ばしてもう一つ述べたい裏テーマである。
 2.5.の結論で「我々は「萌え」が広範な範囲を持ち、「あれも萌え」「これもオッケー」とものを認める精神の手助けとなるものであることを忘れてはならない。」と「萌え」を扱う人々に警鐘をうながしたのだが、このテーマは5.4.でも同様に、しかも一般大衆に向けて述べたい。寛容を世間が失いつつあるというのは、「萌え」も社会も同様である。「萌え」が今までずっと「モテないから逃げるんでしょ」「犯罪者予備軍」「社会と関われない」などと毛嫌いしていた人は少なからずいたろう。そんな方々はおそらく「萌え」そのものもハナから価値を認めなかっただろう。しかし、今私はこうやって信仰と神から繋がる道程の中に「萌え」が浮かぶということを考察した。「萌え」も決して捨てたものではないことを述べたつもりである。「萌え」を嗤っている人は、実は「萌え」ている人よりも不寛容かもしれない。

5.5.自己から他人へ

 最後に4.5.の三つめの疑問に答えよう。

  1. レゾンデートルの保証による期待される成果とは何だろうか。目的は「自分が必要とされていることを忘れない」こと、手段は今まで第四章の内容と「萌え」であるとしたが、期待される成果についてはまだ語っていない。

 この疑問に関して、いきなり答えから入る。レゾンデートルの保証によって達成できることは「自分自身が必要とされている」と感じ、それを確かめようとする行為ではないかと思う。従って期待される成果は自分が必要かどうかを確かめるため、自ら行動してみることが期待されていると思う。むしろ、それが人間の「ノーブレス・オブリージ」ではないかとさえ思うのである。
 もう少し詳しく述べてみると、人間にはそれだけで付帯される人権というものが保証されるという話は5.2.で述べた。ここでふと思うのが権利と義務という二項対立はその双方を求められるのではないか、ということである。つまり、人権があれば自然と人務、つまり人間としての義務というのが求められてしかるべきであるということだ。また、人間には永久に保証されたレゾンデートルが与えられていると仮にすれば、それをどうすべきかというのは個人の自由意志に任されているとはいえ、やはり人間として何らかの「ノーブレス・オブリージ」が備わっていても自然に感じる。では、人間としての「ノーブレス・オブリージ」とは何だろうか。言うならば「すべての人間が人間であるというただそれだけの理由によって等しく課される義務」である。それは自ら行動し客体(自分を含んでもよい)に何かをしてあげることで確認でき、表現されるものではないだろうか。しかし、いくら自分を含むと言っても、自分だけに何かをしてあげるだけでは、やはり了見が狭い。より大きな、包括的なところで表現されることが求められているはずである。*27
 そこで大切なのが「自己幻想を対人幻想へとパラダイムシフトさせるきっかけ」になる。このパラダイムシフトさせるきっかけはいろいろと考えられるが、それを実際のコンテンツの中から考えてみようというのが本節である。*28
 例えば『電車男』の「エルメス」は「電車男」にとって、パラダイムシフトを起こさせる存在だった。「エルメス」自身は一見何もしていないように見えるが、告白の瞬間には

彼女が俺の両手を取って
「がんばって!」
と言ってくれた。
*29

と励ましていたり、それ以前にもちょくちょく「電車男」を励ますような、立てるような、そういった言動が見られる。パラダイムシフトを起こした「電車男」自身も

なんかここまでこれたのが未だに信じられない
これまでの人生ってなんだったんだろとか思う。
*30

と自分自身が劇的に変わったことに驚き、そして今の自分に歓びと誇りを持っている。


 『げんしけん』の春日部咲は自らが変わりながら、相手を変えていった物語のキーパーソンである。笹原のオタクとして、男としての自信の無さげな部分をしっかりさせ、斑目に「トータルに自分で選んだもので身を固める」ことができることを示唆し、大野が趣味を隠して人を遠ざけようとしたことをなだめ、大野とともに荻上のトラウマを解きほぐし、そして笹原と荻上の恋愛を成就させるという......それ以外にも数々の活躍を見せた。ついには「げんしけん」の枠組みさえ作り上げてしまったという、まさに『げんしけん』影の主人公である。その一方で、高坂の彼女としてオタクとつきあうことがいかに大変で、努力が必要というのを身をもって体現した、健気な女性でもある。
 そんな彼女に影響され、部員間のコミュニケーションもより活発化した。笹原は部長に就任しリーダーとしての頭角を現し、斑目は二次元のみに興味が向いていたのが、咲や大野など女性とのコミュニケーションも積極的に図るようになっていった。大野と荻上は加入当時相当仲が悪かったのが、後に大野が荻上を応援する立場になり、笹原妹は兄のことを素直に認めるようになった。
 このように、咲が対人関係を作り上げていったことで、他のメンバーの人と人の垣根が取っ払らわれることも演出したのである。人を受け入れることと、人は変わることで成長していくということを『げんしけん』はダイナミックに描いている。*31


 『ルサンチマン』の長尾は、今まで社会からつまはじきにされていた主人公坂本とその友人越後に、アンリアルにまで行って変わる必要はない、リアルでも十分いいと認めた存在である。「あんたチビの方が愛嬌あっていいよ」*32と越後には言い、坂本には厳しい言葉も投げた。「諦める前に何か努力したことあんのかよ......//何もしないで勝手に諦めやがってさ」*33それから、坂本は変わりかけた。しかし、結局坂本は長尾ではなくアンリアルの月子の方を選んでしまう。
 一方、月子は坂本を「生まれてきて、ありがとう......」*34と出会ってすぐに存在肯定の言葉を投げかけた。坂本はそれ以来、彼女一途になる。坂本の生真面目さが最後まで月子を選ばせたのだろうか。また、越後はアンリアル世界で英雄とまで呼ばれた存在だったが、現実では職を失いニートになっている。最期は引きこもりニートの衰弱死とあまりにアンリアルとかけ離れた存在で死を迎えた。
 結局変われなかった坂本と越後の根の深い問題は、確かにアンリアルでは癒しへと変わった。しかし、現実では2人共に不幸な形で幕を閉じている。


 これらから言えることは、いずれも恋愛関係という対人幻想を媒介変数として物語が描かれているのに、爽快感と考えの及びかたが異なる。その境目にあるのはなんだろうか。5.1.でも述べたが、その一つとして人間的な成長が感じられるか感じられないかで、読後の爽快感というのは違ってくる。成長なり、何らかの変化なりを我々が期待しているからかもしれない。
 変化の第一歩となりうるのが「人に興味を持つこと」ではないだろうか。人に興味を持つことでその相手との関係を軸にして、何らかの新たなる物語の展開が起こる。対人関係の中で、微妙な変化が生じることで、他の対人関係にも変化を生み出すのである。その変化から始まる有機的な対人交流によって、また自分もフィードバックを受けることになる。そのおかげで、新たな自分にまた気づくことができる。ところが、『ルサンチマン』の場合、坂本と越後は最終的に人よりもアンリアルに興味を持つことを選んだ。「人に興味を持てなかった」が故に共に変化することができなかった。そんな彼らは個人が変化しないままになってしまい、結果として個人の抱えるエントロピーが増大し、崩壊してしまったのではないだろうか。それを象徴するような結末である。


 これを踏まえて思うのは、人間としてのノーブレス・オブリージを達成できないというのは、人間としてのフラストレーションが溜まることなのだろう。人の役に立ちたいと自発的に思うのは、そのフラストレーションを解消するために思うことなのかもしれない。人は成長しなければならない、という強迫観念の中で生きているが、それが無いならないで、やはりもどかしさを感じるのである。
 それにしても、『げんしけん』の咲、『ルサンチマン』の長尾/月子、『電車男』のエルメス......などなど、そういった対人幻想が人を変えてくれると気づかせてくれるのはみんな女性なのである。国学者の米田勝安も「これからの主役は、(中略)二十歳前後の女の子たちになると思います。//男の子は女の子にくっついて後をおっかけてきますから放っときゃいいんです。」*35と述べる程で、女性の鋭い文化感覚や清明心指向の発想を持ち上げている。おそらく、女性は子供を産む行為から人間としてのレゾンデートルを感じられるし、対人幻想もやがて他人になる赤子を育てることになるため、より強く備わるようになっているのではないかと思っている。一方の男性は、そのような女性の気づきに対応できるように、アンテナをなるべく張っていなきゃならないのだろう。男性が気づくことは難しく、まずは女性との付き合いの中で変わっていくことが、実は一番の近道なのかもしれない。


 最後に、自己から他人に、そしてもっと大きな物語に興味を持つことで、どんどん変わっていった女性の話として、秋山知穂『私の名前はアマルです。』を取り上げたい。これは、秋山が自身の22年間を振り返ったエッセイで、特に大学に入学からのイスラームを知り、自分の体験や出会った人との交流と通じて、劇的に変わった過程とその要因について、イスラームの思想を随所に取り入れながら軽快なタッチで描かれた作品である。
 秋山は大学に入るまでの自分のことを「ザ・無関心少女」と呼び、何にも関心を持てなかったと懐述している。そのような想いが大学1年の秋から冬近くまで再来していたが、「アル・ハムドゥリッラー(神に賞賛あれ)」という言葉から、今までの自分の行動や出会った人などを思い出し、それらがどのような影響を今まで与えてくれたのか、逆に今の自分がどうであるかと見つめ直している。そして「今までの色んな人やものや言葉や気持ちや偶然が合わさった、すごく大きな流れに乗って私はたどり着いたんだった」*36「今まで自分を導いてくれた全ての人やものに対して申し訳ないと感じた。」*37という「人への興味」を感じている。その上で「できるだけやってみよう」*38という行動へと変化していった。
 実は、気づくことに偶発的な他者や恋愛幻想などはそれほど重要ではない。人への興味を持つことが、まず第一である。その上で、その人たちにプラスの効果を与える何かをしよう、という行動が必要となる。それが伴って、はじめてパラダイムシフトが起こるのである。
 つまり次の一歩「自己幻想を対人幻想へとパラダイムシフトさせるきっかけ」というのは「人への興味」と「彼らへのお返し」という二つの作業を必要とするのである。当たり前かと思われるようなセット活動なのだが、実はしっかりとフィードバックしない人が圧倒的に多い。そして、変わることができないままになってしまうのである。
 逆に、お互いがお互いのためにフィードバックをすることができれば、「萌え」ではない、自発的に与えられるレゾンデートルを感じることができる。自分自身にレゾンデートルを保証させるよりも、他人から受けるそれは、より多くの人とつながっていることでより強いものとなる。そして、いつかこの世の繋がりを受けていることも越えて、あの世ともつながる「外」へと出ることができれば、我々も少しはこの世と巧くつきあっていけるようになるのではないだろうか。


 秋山は最後このように述べている。

「絶望しない」というのはつまり「アマル」という名前の意味である「希望」を持ち続けるということだ。それを守り抜くことがこの4年間で学んだことを活かすひとつの方法であり、これからの私がどんな状況になったとして、「アマル」が道しるべになってくれると思う。

 結局のところ、どんな状況においても人間絶望してはいけないのである。それは、いかなることにも適応され、パラダイムシフトさせることも、宇宙の外側を想起することも、希望の道が開けている限り、閉ざされたわけではない。そして、それは個人としてのエントロピーが崩壊しないためにも、希望を捨てずチャレンジすることも、また大切なのだろう。


 クルアーンでは以下の言葉がくだされている。<<アッラーは誰にも、その能力以上のものを負わせられない>>
(雌牛章 286)

*1:中野独人 2004 p.6 引用ママ

*2:電車男@全過去ログ 参考URL : http://f41.aaa.livedoor.jp/̃outerdat/ 閲覧日: 2009/1/25

*3:本田 2005 p.193

*4:電車男」のパートナーの通称。初めて「電車男」に贈ったプレゼントがエルメスのペアカップだったことに由来

*5:大平 2007 p.77

*6:例えば、大平 1994『やさしさの精神病理』など

*7:岡田・唐沢 2007 p.198

*8:岡田・唐沢 2007 p.195

*9:岡田 2007 p.7

*10:東 2001 p.76

*11:これに対して、唐沢俊一は「日本人ひとりひとり、自分が自分だと言えるほどみんなアイデンティティは強くない。自分は自分だと言えと焚き付けているアーティストや文化人というのは「自我肥大者」という奇形児なんです。そういう人に焚き付けられて、(中略)「自分が自分が」と言ってしまったら、(中略)彼らが40歳になってアニメを見続けられなくなった時に、ふと、それに変わる何かで自分のアイデンティティを満たせるかというと、すごい空虚感、自己喪失感に苛まれるんじゃないかと思うんです。」(岡田・唐沢 2007 p.197) と危機感を強めている。アイデンティティの誇示はこういった怖さもあるのだ。

*12:奥田敦 p.95 2005

*13:購買意欲やモノが過剰になっていることなど

*14:ただ、恋愛幻想というと男女間のことしか言及ができないので、これを対人幻想と言い換えておく。人同士でレゾンデートルを与えあう行為という部分において恋愛も対人もほぼ同じである。(やや乱暴だけれど。)

*15:ちなみに、ここで何故か例に上げたステラーカイギュウとは、1745年に初めて発見されたあと、わずか23年で絶滅。カムチャツカのハンターが狩るに狩ったり2000頭、しかしそのうちの4/5は殺されたあと「重いから」という理由で打ち捨てられたままになっていたという。私が欧米人の旺盛で傲慢な精神を表す際に、リョコウバトともによく例に上げる動物。けっこう好き。なお、それを受けて捕鯨を今でも非難するのはまさに「羹に懲りて膾を吹く」ようなものだろうとも思っている

*16:ちなみにこのような視点から自分自身の立脚点を探る試みは、既に先例がみられる。本稿では「奥田 2005 p.33」を参考に行った

*17:そうならないことを願うのみである。自分から外へでないと。

*18:奥田 p.95 2005

*19:何か、俺が「萌え」そのものみたいで気持ち悪いなこれ

*20:岡田・唐沢 2007 p.98

*21:荒俣・米田 2000 p.64一部改変

*22:清沢満之 我信念 参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/001211/card45629.html

*23:これに関しては、まだ仮説の域を出ない

*24:東 2001 p.76

*25:たとえ伝説であったとしても

*26:内村 1938 p.18

*27:見ず知らずの人間を救ったという話が美談として語られていることも、それの裏付けとなろう

*28:ここから先は個々の作品に対して論を展開させているため、作品自体をもともと知らなければわかりにくく、またいわゆる「ネタバレ」状態にもなっている。その点だけご承知いただきたい

*29:中野 2004 p.271

*30:中野 2004 p.244

*31:こういったサークルというのは、今減りつつあるのかもしれない

*32:花沢 2005 4巻 p.15

*33:花沢 20054巻 p.96 (右図13参照)

*34:花沢 2004 4巻 p.48

*35:荒俣・米田 p.180 2000

*36:秋山知穂 2009 p.48

*37:秋山 2009 p.48

*38:秋山 2009 p.49