そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

あとがき

 ようやく終わりました。ここまで長い話を呼んでくれた皆さん、本当にありがとうございます。
 まさか、書き始めた当初はこんなに長い話になるとは思っていませんでした。2年分のレポートとあとは今まで読み溜めた本やマンガで書ききれると思ったのですが、約80%は書き下ろしという形になってしまいました。それは、私の問いの立て方が拙かったかなあと思うのと、今までの大学生活の体たらくぶりに愕然とする場面もありましたが、反面「萌え」がものすごく多岐に渉る分野をカヴァーしているということを再認識させられました。やはり「萌え」について語るのは、かなり困難ですね。
 何故「萌え」についてこれほど興味を得たのかと言えば、私自身が「萌え」についてさんざん振り回されたのが、そもそもの発端でした。1.2.もあるように私は「萌え」を肯定して、否定して、で今この結論に至るわけです。ドイツ語でいうとジンテーゼへとアウフヘーベンしましたね。とはいえ、この結論は自己満足程度なのかもしれませんし、この論文もまた「大きな萌え」の中に溶け込んでいくのでしょう。
 この論題には早くから取り組んできてそれなりに思うこともあったのですが、それがあまりにも突拍子がないことが多くて、論理をこじつけるのに苦労した面が多々あります。中身の割にボリュームが増えてしまったのは、まさにこれが産んだ弊害でした。ただ、その分自分自身は相当濃い作品ができたなと自画自賛しております。まあ、最後の節はかなり論理展開が強引ですが。


 この論文を書いていて何が一番大変だったかと言えば、脳と手と目の動きがバラバラになっていくことだったかなと思います。妄想はものすごい勢いで進み、手はそれをできる限り忠実に再現しようとして、半ば反射的に動き、それをあとから目の認識が追っかける感じという、私自身が完全に振り回された作品でもありました。例えていうなら、落ち着いて行けよといったにもかかわらず、前半から突っ込んで行った2009年正月2日のT大5区K選手のような、あるいは2009年1月11日のK府8区K選手のような、そんな突っ込まれ方をして行った文章も多く、あとから自分が追いかけるのに苦労すると言う、いったい誰が書いたのか分からない。そんな文章になってしまいました。
 そのせいでしょうか、あとから読むと、どうして私はこんなこと思いついたんだろうか、という部分が散見されます。普通なら本筋に戻すところなのでしょうが、私は敢えて、これをそのまま活かして展開させるという方法をとりました。この方法は、概ね成功したように思うのですが、反面流れをきっちりと重んじる文章になってしまったので、途中から読んでも分かりづらいのでは、という失敗もしてしまったかなと思っています。


 さて、今の日本に足りない物はとふと思う時、私がよく思い出すのは『おとボク』の舞台 聖應女学院のモットーである「寛容と慈悲」です。寛容と慈悲、2つとも今の日本には少し足りないような気がします。確かに、自分自身に余裕が無いと少し難しいテーマかなとは思うのですが、もし受け入れることができればとか、もし気にかけることができれば、などと思うと、そりゃできた方がもっとよくなるんじゃないかなと、そう思うのです。
 また、人に対して積極的に関わっていけない、というトラウマ体験を持っている方も多いのではないかと思います。実は私もそうでした。私の場合、小学校一年生の時にドッヂボールを授業で何度もしたのですが、その時のチーム決め方式が強い2人がリーダーになり、リーダー同士のじゃんけんで勝った者→負けた者の順番で残りの級友をチームに引き入れていくというものでした。私は最後まで残りました。そして、残り一人だった場合じゃんけんをして、勝った方に必要かどうかの選択権が与えられるというものでした。たいてい私は負けた側につくことになりました。ドッヂボールだから、基本的に人数か多い方が有利なはずです。それでも、私はいらないと言われる身でした。この経験が後々まで残り、ずいぶん長い間、俺は必要な存在なのかと悩み続け、修学旅行の班決めでも、なかなか積極的に手を挙げられなかったのでした。
 しかし、最近はもっと怖いことに、「テキトーにチョーシのイー奴」以外はすべて人気がないようです。そういえば『ルサンチマン』の越後も同じようなことを言っていました。まだ私の頃は各授業ごとに英雄がいて、放課後にも英雄がいたわけですが、今の学校ではみんな一緒の奴を支持するそうです。これは今後、学校にトラウマを抱えた人が増えるのではないかという危惧をしています。


 あとがきのなのに意外に長くなってしまいました。そろそろ締めましょう。私たちの住む現代社会を「萌え」で語るというのが、この論文の裏テーマでした。現代社会もまた、今の「萌え」が抱えている問題や構造と似ているということを、「萌え」では相対化できないはずなのにわざとやってみたのです。とはいえ、信憑性はそれなりにあると思っています。というのも、現代社会が「萌え」と同レベルと幻想まで矮小化してきたという気がしてならないからです。これは危険ですよ。なにしろ、人間同士の繋がりを感じられなくなるのですから。「ヒューマン・イズ・デッド」という概念をちらりとだして、あまりに怖かったのですぐ引っ込めましたけれど、このままだと本当に「ヒューマン・イズ・デッド」と呼ばれる日も近いかもしれません。それは食い止めなければなりません。その方法ですか?私は次の三つがその鍵だと思っています。

  1. モットーは寛容と慈悲
  2. とにかくおまいら外に出てみろ
  3. 希望を捨てずにチャレンジしてみる

 最後になりましたが、この論文を書くにあたって、実に22年間今日までこれほどまでのどやかに育ててくれました父、母、兄、4年間辛抱強く私を指導して下さった先生、4年間とは思えないほど密度の濃い付き合いだった研究会メンバーのみんな(とりわけアマルにはエッセイの引用を頂いてしまった。多謝)、また、異端ともいえる私の意見に示唆をくださいましたエレン氏,チャーリー氏を始めモーニング娘。学会の方々、そして、なによりここまで本論を読んで下さった全ての方々へ。あなた方がいなければ、この論文の完成は見なかったと思います。ここに謹んで感謝の意を表しつつ、本稿の末尾とさせていただきます。


2009年1月29日 すぐそこに迫る春の入り口を待ち遠しく思って。 國仙直香