そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

報道の自由

 言論の自由報道の自由は違うと考えている。また、報道する自由と報道の受信を選択する自由も違うのではないかと考えている。前者は明らかに、言論と報道の特性の違いからきている。言論は自分の意見を述べることであるに対して、報道は誰かの意見(事件、問題など)を述べる(伝える)ことであるだろう。


 ところで、ジャーナリズムと報道とは少し違う特性を持つ、というのを今さっき知った。ジャーナリズムは報道だけではなく、解説や批評もするらしい。なるほど。しかし、だとすれば、報道とジャーナリズムがともすれば同意に使われているのではないだろうか、という気がしている。そして、純然たる報道機関がジャーナリズムの精神を持ってもいいのだろうかという疑問がある。いや、純然たる報道機関であることを求められているところが、ジャーナリズムの精神を織り交ぜて報道としているのなら、これは少々拙いことではないだろうか。


 例えば、宅配便に生のズワイガニを頼んだとする。で、配送されたものを見るとボイルされていた。おかしいぞ、と運送業者に尋ねれば「ああ、ズワイはボイルで食べるのが一番だと思いますから、配送の途中で加工しました」などと言われた日にゃあ。当然、何余計なことをと思うのだろうが、実は報道機関が事実を加工して報道として届けるのは、この宅配便の譬えと何ら変わりのないことをしているのではないかと思うのだ。


 これと関連して言えるのが、報道する自由と受信選択の自由で、何でもかんでも報道するもんでもないだろうというのが一点。次に、受信選択の自由があれば、とりあえずいいんじゃね?というのが二点。そして、もし報道が事実を伝えるために存在しているのであれば、報道の自由は「報道する/しない」の部分に収斂されるのであって、「どう報道しようが自由」という考え方は、そもそも存在し得ないのではないか。それは、ジャーナリズム、もっと言えば言論のポジションに入ってくる。解説や批評とは、言論の部分で展開すべきであって、少なくとも報道ではそれが展開されるのは妙だ。


 というわけで、結論としては

  1. あまり報道機関は多くない。たいていはジャーナリズムである。
  2. 報道機関を標榜するのであれば、できる限り事実に忠実であれ。
  3. とりあえず、某赤い新聞がなぜ報道機関と言わず、ジャーナリズム精神を多用するかがわかった。彼らは報道機関ではない。

 ちょっとメラニン摂ってくる。