そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

ややや

kyoto1172010-06-19


 しばらくぶりに見れば、デザインが変わっていて驚き。
ここは廃墟にするつもりはありません。かつては地球の端に立っていたかもしれないが。


 ちょっとTwitterで書くには長いネタになってしまったので転載。でも、原文はTwitterにあるけどね。

molly_zw
非実在の議論で一番疑問なのは、法案に対抗する一方、オタク世論の中で「欲望の自由」が肥大化しているように見えること。頭の中は自由かもしれないが、欲求の発言・放言や表現、行動まで「何でもあり」ではない筈。「ようじょ」等と放言しやすい土壌もおかしいし、実際怖いです。

 誰もが発信者になれる土壌は素晴らしいと思うのだけれど、だからこそ、個々人がメディアリテラシーを学ばなくちゃいけないという必要義務も同時に発生する。それが、曖昧なままになっているから、威力業務妨害や犯罪自慢なんかが起こってしまう。で、周りの人も不快になる。「嘘を嘘と……」というのはひろゆきの言葉だが、それはそうとしても、これが発信者側のメディアリテラシーを蔑ろにしていい免罪符になるとは到底思えない。


 むしろ、それが前提で、しかし、夕刊和歌山事件的にある程度の資料とある程度の根拠があって、それでもネットでの情報は間違っていることがあるから気をつけろ、という意味では無かったのか。その部分には受容者主義となってしかるべきだが、まずは発信者側がよく考えることが大切。そして、それが無理ならローカルレベルにとどめておくべき。しかしそれが良くわかっていないから、問題が生じている。常に自分のむき出しの暴力が特定の何かへ向かっていないか、考えるべき。しかし、それは組織と違って個人であるから、本当に難しいのは事実だけれど。


 僕らには不逮捕特権はないし、発言の自由も公共の福祉に反しない程度において護られている。


 で、まあこんなツイートを読んだわけです。 RT @molly_zw: 「幼女のつるぺたのおまんこをアスファルトで埋めたい」というpostが頭に引っかかって、吐き気がして眠れない。(中略)それは表現の自由でもなんでもない、女子を無差別爆撃する悪意だと思う。これに対して、「他人に迷惑をかけなきゃ何しようが勝手ですよ〜」(さすがに発信者はふせる)という律があるのだけれど、もうね、アホかと。それがWWW上に出た、そのことがどれだけの「むき出しの暴力」かと。内心に留まる限り自由。しかし、WWWはもはや内心の領域ではない。

 内心の領域は拡大しない。それは己の心の中だけ。しかし、内心の領域とWWWの境目がセロファンよりも薄くなってきて、そしてそれを忘れて簡単に超えてしまう。いや、超えたことに気づいていない。「アウトプットという名の感情のたれながし事件」とある方は称したけれど、気づいている人は存外少ない。


 で、ある人は言うわけだ。「読まなきゃいいじゃん」と。百歩譲ってそうだとしても、じゃあ、書いていいのか?人を不愉快にさせるような内心をそのままWWW上に流していいのか?そうすると、今度は「じゃあ、何も言えなるなるぞ。ポケモンホワイト・ブラック」でも差別になるんだし」と言われればそうだし、そこまで進んでしまうと、不愉快に思う度量とその言説が認められることによる社会利益の総量との比較衡量にならざるを得ないのが本当かもしれんが。だから、何でも絶対正しい、絶対間違っているというところはほとんどありえないんだが、しかし、そういうふうに見られることもあるということをできれば意識しておく必要はあろうよ。WWWなんだし。


 ちなみに、俺は「非実在青少年」法案に反対していて、研究発表の前振りとして話をしたこともあるのだが、法案における問題は「目的効果基準に合わせたときに、果たしてその規制が目的を達成出来るのか」というつながりに甚だ疑問を感じるからである。あと、必要性を超えた表現の自由規制なのではないかとね。しかし、それで誤解される理由は、ただ単に犯罪への影響力の少なさとか、相当の芸術性とか、自由の侵害とか、そういうレベルでしか考えていないあまりに、欲望も自由権の一つだ、とか思っている人も多いんじゃないかと。だから、件の「幼女」発言も許されるわけで、つまりそういう発言や表現の自由が侵害されるとか言って、反対している人もいるんじゃないかと。しかし、まさにそれは個人の欲望に過ぎないわけで、大衆の支持なんて受けるはずがないんです。だからキモがられる。


 CLANNADで泣いている人と、夜勤病棟でヒイヒイ言わせている人はたぶん違う人なんだと思う。しかし、一般的には同じ人に見えてしまう。それは、ちょっとよくないことだと思うけど、しかし、それは韓国人=ニダという認識と何ら変わりが無いことも忘れてはいかん。だから、「非青年」反対派は理不尽にバッシングされることもあろうが、しかし、だからこそ、その横で「幼女の……」なって発言は厳に謹んでいただきたい。


「家でやろう」