そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

買い占めは存在するのか?

 首都圏を中心に買い占めが話題になっている。


 ここで言う買い占めとは、なんであろうか?わかりやすく考えてみるために、「買う」と「占める」に分けて考えてみよう。まず「占める」。これは多くの人のために用意されているものを自分が占有する行為だと位置づけてみる。例えば、ここにりんごが100個あったとして、これを物不足に悩む50人の人で分ける。この時に、あるひとりが100個全部を持っていったら、いかがだろうか?彼がもしジャイアンで、残り99人ののび太を――って、書いていてシュールだな――全員殴り、そしてジャイアニズムを発揮して占有してしまうとする。さて、この時のジャイアンの活動は糾弾されてしかるべきであろうか?……多くの人が糾弾されるべきだと答えるのではないだろうか。りんご2個もあれば、大抵の人は満足することができる。それをひとりで占有してしまうのはいかがなものか……と。


 では、同じくりんごが100個あったとして、それをゾウ25頭とネズミ25匹で分けることを考える。これを全員に2個ずつ分けたときに、数の面では平等である。ゆえに、占有は起こっていないと言える……だろうか?恐らく、ゾウ1頭に対してりんご2個は少なすぎるし、ネズミ1匹に対してりんご2個は多すぎるだろう。つまり、数を均等に分けたところでそれが即ち占有を逃れるとは限らない。そこで占有とは、身の丈にあった以上の物を集めることによって起こることだと言える。人間では体格も全く変わらないではないか……と見る向きもあるかもしれないが、家族、親戚という存在を考えれば、自ずとある一人の人間が背負っている「体格」というのは違う、ということがわかるだろう。このように「占める」という行為一つをとってみても、単に数合わせだけを見たところで、それがすぐに占める行為を俯瞰できることは限らないとなる。


 次に、「買う」という行為を考えてみよう。買うとは売買契約の一部分を取り出してきた行為である。すなわち、品物を受け取る、その対価を支払う、これが売買契約の根本である。品物を受け取るのにはそれ相応の対価を用意せねばならず、それは質、量の向上に比例するのが一般的である。うまい棒を1本買うためには10円を用意すればいいが、10本買うためには100円を用意する必要がある。(消費税は考えない)これは資本主義の基本でもあり、100円を用意できない者に、うまい棒は10本も与えられないし、逆に100円を用意できた者がうまい棒10本を求めた際には、うまい棒10本を渡さなければならない。しかし、もちろん拒否することも可能である。


 さて、先ほどのりんご100個をスネ夫が全て買ったとしよう。この買う行為自体は何ら問題のない行為である。なぜなら、今「買う」事を考えてきたが、このスネ夫の売買行為は、それ自体を取り出したときにはただの契約に過ぎない。これに、落ち度はない。ここで、「物不足に悩む50人」という具体ケースが表れる。この時に初めて、スネ夫の一連の行為が評価される。しかし、買うことそのものには落ち度がないことを先ほど示した。そこで、占めることに問題があるかと考えるのだが、占める行為が単に数合わせだけで考えられないという話は先ほどした。したがって、単にこの行為だけを取り出してきたところで、買い占めが即不当、ということは言えないのである。


 なぜ買い占めが嫌われるかということであるが、おそらくは倫理的には問題があるように感じられるにもかかわらず、法律としては何ら問題がないという点にあるのだろう。物不足だから、互いに融通しあわねばならない。その協調姿勢を合法的に崩す買い占め行為は、その背景に何があるかはおいておいて、とりあえずは不当!と言いたくなるのだろう。「金にモノを言わせ」などといい、そもそも金銭を操ることが美徳とされない日本では、また自粛ムードに代表されるような協調姿勢を好む日本人にとっては、たとえそれが合法であっても、心情的に許せないものなのだろう。


 さて、次に後編としてそんな嫌われる買い占めは、本当に起こっているのだろうかということを考えてみたい。だって、こんなにも問題ないにもかかわらず嫌われる買い占め行為ですよ。やったら袋叩きにされるんじゃないですかね?なのに、なぜそんな事件が起こっていないのか……というお話。