そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

3/20 チャオ御岳スノーリゾート

目的:スキー(今季8カ所目・7日目)

行き

 出発時刻:5:30

 到着時刻:9:30

 ルート:自宅〜彦根ic(名神-中央道)中津川ic<¥2370>(R19-R361)チャオ

帰り

 出発時刻:16:30

 到着時刻:22:30

 ルート:チャオ(R361-R41)上呂<休憩>(R41-r58-R418-R248-r79-r94-r77-r53-R21)

 

メモ書き

  • 彦根〜中津川と彦根〜白鳥は同じ料金
  • 開田高原に抜けたところで御岳が快晴。雪を被ったのがとんでもなく美しい。
  • R361は途中酷道区間あり。確かにr50へ迂回すべきだった。
  • 県道の途中に突如現れるチャオ。
  • チケット売り場、ゴンドラ共に大混雑。チケットは1オペ。ゴンドラは1人レーンあり。チケット買うのに30分。ゴンドラは15分〜20分の待ち時間
  • 山頂から乗鞍岳大展望。雲海。
  • 雪質はもう春スキー。午前中はアイスバーン。午後はシャーベット状。
  • 昼食はみたらし団子。安くかつ早い。なお、飛騨地方のみたらし団子は醤油だれ。
  • 最後に4年ぶりにショートスキーを履いたが、こんなに安定感のないのによく乗ってたな俺。
  • 帰りは飛騨方面へ降りる。途中のダム湖は凍っている。
  • R361快走。
  • r58で関市方面に抜ける道を見つけ、快走。関市からは先日のダイナランドからの帰りと同じルートで。
  • 岐阜県北部からの下道ルートではこれが最速だろう。

トワイライトエクスプレスの「残念」

kyoto1172014-09-27


トワイライトエクスプレスが数々のテレビ番組や情報誌で取り上げられるようになって久しい。2015年の3月で廃止になることもあって、その人気は高まる一方で、今や乗車券を手に入れるだけでも一苦労で、幸運だと言われるようになってきている。このあたりの状況は乗車記に書いた通りで、かくいう私も1ヶ月近くあの手この手でトライした。

そんな、一般人ではなりふり構わずにトライしなければ手にすることのできない乗車券であるが、それとは対照的にトワイライトエクスプレスは本当に優雅な列車である。車輛のインテリア、エクステリア、パーサーのサービスは言うに及ばず、運行距離、時間などあらゆる要素が合いまって、日本で最も優雅な列車だと言って良いと思う。じゃあ、その旅客は?というのが今回の話題である。


具体例を幾つか上げてみよう。例えば、札幌駅への入線エピソード。桑園方から進行してくるトワイライトを収めようとホームに広がる人々。これは線路ギリギリに出ていたり、大きな三脚を立てたりしていなければ許容範囲だろう。また、到着した列車と並んでの撮影はむしろ微笑ましささえ感じる旅の一コマである。しかし、進入列車へのフラッシュ撮影やDD51に乗って(入れ替え作業で旗降るところに)撮影する旅客がいたのには閉口した。前者はうっかりフラッシュを切り忘れていたのかもしれないが、後者はうっかり乗ってしまったということはなく、明らかに乗ってor乗せて撮っている。転落や不穏挙動を考えると大変危険な行為ではないだろうか。同様の光景は洞爺駅でも見られた。
また、洞爺では北斗の退避で、敦賀では機関車の付け替えで、それぞれ10分以上停車する。ところで上りトワイライトは編成のA寝台側が先頭となるため(除:五稜郭〜青森)に機関車が付いており、機関車に最も近い客車の扉は1号車A寝台の扉となる。先ほども案じたとおりみなさん機関車を/と写真に/を撮りたいわけで、そこで起こったのは1号車扉への到着前の殺到である。1号車の旅客は最大で11人のはずだが、それ以上が集まったということは、間違いなく他の客車の旅客となる。そして殺到した旅客は扉が開くと同時に機関車へとダッシュし、発車ベルを聞いてからまた件の1号車扉へ突撃してくる。A寝台の落ち着きたるやどこへという具合である。

まだある。


食堂車でのこと。私はティータイム、ディナータイム、モーニングと3度利用して、それぞれの雰囲気を味わったが、特にディナータイムは格別だった。その料理はもちろんだったが、それとともに雰囲気が非常に洗練されていたからではないかと思っている。というのも、ディナーは\12000/人というカシオペア北斗星と比較しても高めの金額設定となっていて、これに最安のボトルワインをつけるとさらに少し値段が上がる。その金額設定のせいか、乗客の誰もが利用できるわけではなく(できれば全員がそれくらいの余裕のある方々ならと思うのだけれど)それなりの客層の中でゆったりと過ごすことができた。
というのもティータイムでは席が満席であったので、少し待っていると順番を抜かされたとか、服がTシャツに短パンだったりとか、いかにも鉄道ヲタは落ち着かずうろうろし、常連を気取る若い衆はパーサーとプライベートな話をし、会計を滞らせていた。ちなみに3度の食堂車時間ではいずれも浴衣・スリッパによる来客を断っていたが、アナウンスがあるということは過去にそういう客がいたということなのだろう。
サロンカーは2度訪れたがいずれの時間も満席で、座っている人はテコでも動かないような雰囲気で、さりとて他の旅客と語らうでも景色をぼんやり見るでもなく、特に子供らはDSに興じるのであった。(ある意味大人しかったと言えるのだけれど)さらに2度目は記念スタンプを押すべく向かったのだが、なぜか何ら関係ない旅客がスタンプの前に陣取って座り、スタンプの整理に精を出していた。整理はありがたいこととしても、わざわざ一席占領してやるほどのことだろうか?


とまあ、これら数々のことがあって私はすっかり引いてしまった。もちろん、トワイライトの設備には大変満足したし、そのサービスにも大変満足している。ところが、サービスの受け手側にそれなりの対応が求められるにもかかわらず、対応ができていない旅客が散見され、その点は大変残念に思っている。ディズニーランドではアトラクションの指示に従わなければ追い出されることもあるし、欧州のレストランではドレスコードが徹底している。それはもはや規則となっているが、もともとそれは安全なり、場の雰囲気を保つためのマナーに端を発する。そういったマナーが規則にならなければ、守ることができないのだろうか。

マナーといっても、事細かにマナー講師がしたり顔で指摘することはしなくて良い。ただ、「自分と周りが危険にならないこと、不快にならないことをしなければいい」だけのことだ。安全を脅かすような機関車への踏み入れ、雰囲気を壊すような途中駅でのダッシュ、Tシャツ短パン。考えればわかることではないか。

生き馬の目を抜くような御時世、それでは人に出し抜かれるというのは正しい。しかし、この場はあくまで豪華寝台列車なのだ。その豪華に見合う行動をどれだけ取るかで、その豪華さはさらに磨きがかかるはずなのに……現実はそれを担う権利を持った人々が投げ捨てている。これは某レストランでオーナーシェフが水を高額で出していることを客が詰っていたことに似ていて、せっかくの雰囲気、もっと言えば気品がまさにその受益者によって地に伏されるのだ。気品はそれを形作る人々によって徐々に形成されるものだが、それに対しては客も無責任ではいられないだろう。しかし繰り返しになるが、彼らはその責任を放棄し、攻撃しているのではトワイライトエクスプレスも浮かばれないだろう。


トワイライトの廃止は北陸本線第三セクター化によるものだし、直接的な影響はもちろんないが、せっかくの豪華寝台列車が醜態を晒すぐらいなら、いっそ廃止になるほうがマシだと思ったほど、非常に残念に思う一コマであった。

僕は勉強の他もできない

 夏の入道雲が立ち上る7月末。多分、もう夏休みの宿題を終えた小学生はいると思う。一方で「8月から本気だす」と開き直る生徒もいるころ。僕はもちろん後者だった。より正確に言えば「夏休みの友」的な、カラーで薄い1学期のおさらいワークブックは本当に3日ぐらいで終わらせていたのだけれど、その後の延々続く国語の漢字地獄、算数のドリル地獄に苦しむ毎日。スタートダッシュっぽいものをなまじ駆けているものだから、その後のダレ方もひどかった。でも、そのあたりは半ば作業だったからまだ楽だった。
 そう、夏休みの後半はとにかくクリエイティブ系の課題に苦しめられた。その三巨塔が「読書感想文」「図画工作」「新聞」である。(自由研究は毎年適当に時刻表で旅行計画を地理と絡めながら提出していたからそれほど苦じゃなかった)今でこそ、Weblogなどを気ままに書くようになったが、当時の僕は表現したいことがあっても、それに表現力と論理構成が追いつかなかった。例えば、ある年城崎に行った時のこと。


「食べて、遊んで、寝ました。」
 僕にとっては食べたことも遊んだことも寝たことも重大事件だった。夕食には海の傍らしく魚介を中心とした絢爛豪華な食事が出たし、その後ベッドのスプリングが絶妙だったので、飽きずにジャンプし続けた。そして、足が痙攣して30分ほど足を真っ直ぐにして眠ることができなかった。本当はその一挙手一投足さえ、具に追いたかったのだ。でも、できなかった。新聞はA3かB3の大きさしかなかったし、もちろん手書きだからそう量も書けない。だからといって、それらの経験を捨てるのも惜しい。そして、思い余った結果が「食べて、遊んで、寝ました。」だった。


 今もって図工は苦手だから、それは置いておくが、「新聞」「読書感想文」は今なら割とレベルの高いものが出来る。そりゃそうだろう、と思われるかも知れないが、少なくとも今作れ、と言われれば、やや肩の力を抜きつつ、楽しんで出来るのではないかと思うのだ。例えば「ビヤホールで喉を潤す:夏の陽射しが照りつけ、各地で猛暑日を記録した今日8月10日、滋賀県在住の筆者は高校時代の友人とともに中之島ビヤホールへ出かけ、1ヶ月ぶりにあった友人たちと交友を深めながら、美味しいビールに舌鼓を打った。この日のために年休を2時間も取った、と語る筆者は……」
 なぜこんなにも昔は苦しんだのかと考えると、ひとつは「新聞」「読書感想文」なるものがよくわかっていなかったから、という原因が考えられる。すなわち、ひとことに「新聞」「読書感想文」と言われても何をしていいのかがわからないというわけだ。「自分の生活を書けばいい」「本を読んで思ったことを書けばいい」とアドヴァイスがあったとして、それが何の助けになるというのか。自分の生活なんて、別に真新しいことをしたわけでもないし、それをふくらませて書くのは難しい。そも
そも「犬が人を噛んでも普通だが、人が犬を噛んだらニュースになる」と言われている中、自分の普段をニュースとして伝えるのは、大人でも骨の折れることではないだろうか。例えば「筆者、普段通り出勤:朝から雲ひとつない晴天に恵まれた今朝7:30、滋賀県在住の筆者は普段通り出勤した。途中、軽乗用車のドライビングスクールに苦しめられながらも中間地点を8時とまずまずの時間で過ぎたが……」勢い、旅行の話ぐらいしかすることがなくなる。


 読書感想文にしても同様である。思えば、本を読んでの感想などそれなりの数本を読まないと、全く捉えにくいものである。小学生が小説を読んで、その心境に触れながらこう思いました、と書くのは実はかなりのムチャぶりではないかと思う。まず本選びがかなり難しい。『失楽園』『東京島』『僕は勉強ができない』などの男女の複雑な絡みがある話はまず無理だし、『哀愁の町に霧が降るのだ』の青春随想ものも厳しい。『シャングリ・ラ』や『今夜は眠れない』といった同年代が活躍する作品なら何とか手に取れそうな気もするが、今度はあらすじを捉えて的確に感想を書くのが難しい。実は物語の感想文はとんでもなくハードモードではないかと思ったのだ。小学生の感想文ならせいぜい夢のクレヨン王国あたりが妥当なところだろう。


 そこで、著作権フリーの読書感想文http://www2k.biglobe.ne.jp/~onda/を読んで、まず衝撃だった。時刻表や新書の読書感想文がこんなにもおもしろいとは。小学生の文書力と発想力だとむしろこういう形を目指すほうが面白い文章が書けるのではないかと思うのだ。手に取るまでの動機が書きやすいし、読んでいても小説よりかは、現実的な興味の取っ掛かりを武器に理解もしやすいし、それこそ読後の感想と行動に繋げやすいだろう。例えば「鈴木宗男『政治の修羅場』を読んで:東日本大震災が起き、その後の原発処理が遅々として進まない。父はテレビのニュースを見るたびに、民主党が悪いと言うばかりで、僕もそういうものなのかと思っていた。そんな時、書店の新書コーナーでこの本を見かけ、かつて鈴木宗男という悪い政治家がいたことを思い出した。しかし、悪い政治家と言ってもいったい何が悪いのか、きちんと理解していないことに気づいた……」
 興味があるから手にとった、そして読んだら違っていた、というラインを論説は作りやすい。ちなみに、もっともうまいやり方は身近なテーマで選ぶことだ。例えば「椎名誠『活字のサーカス』を読んで:僕は本が嫌いだ。読むのに疲れるし、まだこんなにあるのか……と思うとうんざりするからだ。だから、楽しく本が読める人が信じられなかったが、僕の知らないことをよく知っているようで、それは少しうらましかった。そんな話を父にすると「じゃあ、本を読むことが好きな人の本を読めば、読みたくなるかもしれないぞ」と言われ、椎名誠の『活字のサーカス』という本を渡された……」


 このように「今そこにある危機」を題材に書けば、身の上に起こっていることだからかなり熱が入る。熱が入った文はそれだけで、何かの必死さを感じ、面白くなるものだ。読書感想文もこういう文で書いてくれればいいと指導してもいいと思うのだけれど、そもそもこれも書き方を教えてくれないから、何を書いていいのかわからないのだ。いきおい滑る。


 ともあれ、夏休みの宿題は今が一番ダレる時期である。こんな時期こそおもいっきり遊んで、書きたいネタ・やりたいネタを増やすのが、クリエイティブ系の攻略法ではないかと思う。
 ま、もし時間があれば著作権フリーの読書感想文、私も書いてみよう。今なら面白い文章が書ける
気がするし、少しワクワクする。というより、ワクワクしない宿題をさせる、ってやっぱり単なる苦痛だよなあ・・・

ブームらしい

 東電叩き、原発反対がブームらしいので、私もなんらかの形で叩いてみたい。責任とれー、私たちの土地を返せー、誠意ある回答をしろー、回答はでたらめだー、謝罪よりも行動しろー。以上東電叩き。ついで、原発反対。原発は事故が起こったら大変だー、クリーンエネルギーにしろー、原発は再稼働するなー、原発は責任重大だー。以上原発反対。


 さて、気は済んだか?


 ま、このように言葉にしてみても、不毛だなあと思うこと甚だしく明らかな訳で。「で?」と言わざるを得ないのだよなあ。具体的な反駁になっていればまだしも、だって「誠意ある回答をしろー、回答はでたらめだー、」なんて言われたら、どないせえっちゅうねんと関電でなくとも強く思う。


 そりゃ、こんな会社の言うことなど信用できない。といわれればそれまでなんですけどね。でも、それなら東電に調査を依頼すること自体が間違いな訳で、どこぞの監査法人か調査会社か探偵を雇ってやらせた方がいいだろうと思う。だって、回答を求めている会社の回答が気に入らないからでたらめ、って言われちゃったら、もうどうしていいかわからんよ。


 そうでなくても、一時期計画停電を挟みつつも今日もしっかり電灯が点いていることについて、これは結構すごいことだと思うのだけれど、誰もがそれは当たり前だと思っているし、ねぎらいも何も無い。今日も叩く。その今あなたが使っているワイヤレスマイクですが、アンプで音を増幅するときに使う力のことはお忘れではないでしょうね。あ、パナソニック製の単2電池でしたか、失礼しました。


 そういえば、電気料金値上げでパニックになっているけど、私はもっと電気料金は高くていいと思っている。そうだなあ・・・今の10倍ぐらいになってもいいんじゃない?さすがにそうなったらみんな極力電気を使わなくなるでしょうし、原子力自然エネルギーに代えれば、まあそれぐらいの負担は課されてもしかたないんじゃないかと思えるレベル。


 結局のところ電気に頼り過ぎなのです。電気はあるのが当たり前だし、点くのが当たり前。電気はどこか遠いところで作られて、よくわからないけれども我々は使える。そう思われていたのが、これだもの。私はもっと電力って当てにならなくてもいいと思うのですがね。というより、まずは当てにされ過ぎということで。

長くひどく憂鬱な梅雨


 梅雨に本格的に入ったらしい。しかし、もう6月中旬なのだ。6月上旬もぐずつきがちな天気ではあったが、しかしごばっと雨が降る日はほとんどなかった。だいたい、本格的な梅雨のシーズンといえば、6月中旬〜7月上旬ぐらいが基本なのに、どうして6月=梅雨で7月=夏なのか。まあ7月といえば七夕もあるし、海の日もできたし、海開きもあるし、夏休みだし、スイカは甘いし、夏のイメージがより強くなるのはわかる。これに比べ、6月のイメージは確かに夏じゃない。紫陽花と入道雲のコラボレーションは考えづらいし、かたつむりは干からびてしまう。6月に夏を感じるためにはせいぜい夏至に「夏に至ったぞー!」などと言って勝手に夏感を高めることぐらいしか方法はない。それとて、雨の日の方が多いというのに。


 しかし、よくよく考えてみると雨の日と夏は必ずしも二律背反的ではない。別に夏に雨が降ってもいいわけだ。そう考えると、梅雨と夏が同意してもいいわけで、7月は「梅雨でしかも夏」という位置づけにしてもいいわけだ。しかし、世間はそれを許さない。幼稚園や小学校低学年で配られそうな日記帳は、6月の絵では降水を確認できるのに、7月のそれでは降水を確認できる機会は稀である。思い切って2ヶ月が雨でもいいじゃないか。七夕with雨。海開きwith雨。スイカは甘いwith雨。何の問題もないではないか。まあ、海開きに雨なら「あいにくの天気」という掛詞がつくのだろうけれど。


 第一、降水が主役になる季節など、梅雨と冬ぐらいしか無い。冬とて、降ることそのものよりも、降った結果の状態が重視されているのだから、降水が主役になる時期は6月しか無いのである。日本はケッペンの気候区分では大半が温暖湿潤気候Cfaもしくは冷帯湿潤気候Dfaに属しているように、降水の多い国である。瑞穂国という美称は稲が瑞々しく育つさまから名付けられているが、瑞穂をもたらしたのも降水、とりわけ梅雨と雪解け水である。また、二十四節気には降水と関係ある名称がある。雨水、穀雨、白露、寒露霜降小雪、大雪。若干冬のほうが多いがまあいい。沖縄では梅雨のことを小満芒種というそうだ。しかるに、日本と降水は切っても切れない関係なのに、しかし、疎まれることが多い。曰く出かけられないからと、曰くお足元の悪い中からと、曰く生憎の天気と、曰くアメフラシが湧くからと。


 そういえば、雨の日のマスコットキャラクターといえばかたつむりと言われるが、今もって思えばかたつむりはそんなに可愛くない、というよりむしろ圧倒的に気持ち悪い。ベチャッとたヌルヌルがたとえゆっくりとはいえズルズルと這いまわるその姿は、やはり圧倒的に想像したくない。いろいろな寄生虫を体の中に持っていると聞いてますますかたつむりが気持ち悪くなった。普通のかたつむりですらそう思うのだから、殻のないなめくじとか、体長10cmのアフリカマイマイとか、服部緑地ジャンボタニシとか、それを踊り食いしてしまうフキダラソウモンとか、間違っても街なかで出会いたくない生物のオンパレードである。オンパレードといって東京ディズニーランドのパレードに混ざっていてもダメなものはダメである。


 さて、かたつむりの天敵は数多く捕食されることも数多いが、その食われ方も気持ち悪い。鳥に食われるとか、イタチに食われるとか、フランス人に食われるとかする奴はまだいい。ヤマヒタチオビという他のかたつむりを食べてしまうかたつむりがいて、そいつに食われるとか、リクウズムシという聞くからになんだかよく分からない生き物に食われるのは勘弁したい。マイマイカブリに襲われて溶解液をかけられて溶かされるのもとても成仏できそうにない。しかし、何よりも想像したくないのはレウコクロリディウムに襲われた時のことである。


 レウコクロリディウムは何らかの形で体内に入ると、頭の方へ移動し脳をうまいこと乗っ取る。そして、鳥に食べられやすそうな木の上などへ乗っ取ったかたつむりを導き、そこへついたら頭に入っている体をぐるぐると動かす。その悪目立ちっぷりと言ってはスーパー玉出の看板でさえ節電中ですか?と疑問を差し挟むようなほど、酷い悪目立ちである。間違ってもyoutubeとかで見てはいけない。これを何かこいつこそがレウコクロリディウムに乗っ取られているんじゃないかと思うが、鳥は捕食する。そして、レウコクロリディウムは鳥の体内でさらに成長しました。めでたしめでたし、となる。この乗っ取られる身体というのを想像すると、実におぞましいではないか。自分の意志とは関係なく体が勝手に動き、危険地帯へと誘うのだ。しかも頭はスーパー玉出である。


 しかし、よくよく考えてみるとレウコクロリディウムに中間寄生されたかたつむりは、もし自我が完全に崩壊していればむしろマイマイカブリに襲われるよりマシなのかもしれない。かたつむりに自我があるかどうかは全く分からないし調べようという気にもならないが、かたつむりよりも鳥のほうがその後レウコクロリディウムの影響を長く受け、苦しむことになる。


 と、まあ梅雨時になるとレウコクロリディウムに寄生されていた頃を思い出すから長くひどく憂鬱なのだ。……え、レウコクロリディウムは北海道にしかおらず、でも北海道には梅雨はないからおかしいって?残念、北海道にも蝦夷梅雨と呼ばれる停滞前線の滞留があるのだ。

未知を求めて

 昨日山に登っている時のことだ。登山していると、いつも物思いにふけるのだが、その時にもまた妙な気分に襲われた。中学・高校とワンダーフォーゲル部に属してきて、今また山に登っているが、改めて思うのはなぜ山に登っているのか、ということだ。ジョージ・マロリーは「そこに山があるから」と答えたのだけれど、果たして私はそこに山があるから登っているのだろうか。仮にそうだとしたら、山は方々に見えるというのに、なぜ今日この山を選んで登っているのか。


 なおも考えたが、結局思ったのは、別に山だけにこだわっているわけではないということである。