そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

第二章「萌え」とはいったい何か

 第二章では、「萌え」が示す感情や発動する精神活動について明らかにするため、「萌え」とは何かについて探求していこうと思う。

2.1.「萌え」の定義は不可能か

 とは言ったものの「萌え」に一義的な定義を確定させるのは不可能である。例えば、Googleで検索してみる、あるいはWeblogMixiで「萌え」について言及されている文、あるいは「萌え」を使った文章をちょっと検索してみるだけでも、その数は相当量出てくる。また、その使われ方、定義の仕方は大筋では同じだとしても、差異を比較すると千差万別で、しかもはっきりと決まらないまま誰もが「何となく」という言葉のまま使っている。Wikipediaの「萌え」の項を一つとってみても、古典的な用法に始まり、統語論、形態論、意味論、語用論、成立、普及など多岐にわたる方面から定義付けを行おうとしているほどである。
 とはいえ、『らき☆すた』では
こなた「好きってことの感情表現には違いないんだけど 私も詳しくはわかんないな――――」
かがみ「なによあんたよく知らないで使ってるわけ?」
こなた「ニュアンスで通じ合えるからいいんだよ」
という会話があるあたり、曖昧な定義付けであるにもかかわらず、ある特定の範囲内において一つの意味方向性を感じているのは間違いないのだ。これを「「愛」も「萌え」も定義は広い」(押井徳馬)と表現する識者もいる。


 本章では、「萌え」という言葉が、現れてきた歴史的な流れを踏まえた上で、多くの有識者の「萌え」定義を集める。その上で、「萌え」の持つ意味をよりクリアーにした上で、今後この論文を進めるために、私なりの「萌え」の定義を定めておきたい。

2.2.「萌え」の語源

 それでは、「萌え」という言葉がどのような過程を経て現代社会に浸透してきたかを時間的背景から踏まえておきたい。


  そもそも、「萌え」という言葉は、古代から使われている。「(植物の)芽が芽吹く」という意味を持ち、この意味は現在でも国語辞書に記載されている。この意味で「萌え」を使った短歌として、『萬葉集巻八の巻』頭歌に収められている志貴皇子の歌がある。
――岩走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (志貴皇子)
 今でも、この意味で「萌え」が使われることもままあり、萌黄色、あるいは萌葱色といった色が使われている。*1また、野菜のモヤシは豆の発芽したスプラウトであるため、モヤシの語源は「萌やし」であるという説もある。


 そんな「萌え」が転じて現在使われているようなニュアンスで使われるようになったのは大体、80年代末〜90年代初頭にかけて成立したとする説に集約されるため、おそらくこの辺りで成立したのではないかと見られている。*2
 ただし、現在の用法としての「萌え」の成立には様々な説がある。*3これは「萌え」が当時のパソコン通信上のコミュニティの中、あるいはその周辺で発生した言葉、ある種のスラングだったことが理由として上げられる。その成立過程やあるいは統一の取れた概念がなく、なんとなくといった感じや、むしろそれへの
突っ込みはタブー視されている側面*4もあり、結果的に多数の説が乱立することになってしまった。
 例えば、「もえる」という言葉自体、黎明期には表記にもぶれがあった。『波動用語の基礎知識'95 Ver.1.05.00 (1995/04/06版)』の中では

萌える 非常に熱狂的な様子。愛していること。もえる, と読む
燃え 燃え ゙燃 ゙え 燃 ゙え ゙燃ゑ 燃ゑ ゙燃 ゙ゑ 燃 ゙ゑ ゙
萌え 萌え ゙萌 ゙え 萌 ゙え ゙萌ゑ 萌ゑ ゙萌 ゙ゑ 萌 ゙ゑ ゙
など多数の表記法がある。濁点が多いほど愛の度合が強い
と見られることもある(場所によりけり)。

と、紹介されている(すべて原文ママ)。多数の表記法があることや「場所によりけり」という備考があることから、もともと「萌え」という言葉が閉じた空間で使われていて、意味するところや使う上での決まり事などもまちまちだったことが分かる。*5


 その中において有力視されているのが「誤変換説」と「キャラクター説」である。「誤変換説」とは、何か特定のものに熱を上げること、つまり「燃える」が誤変換され「萌える」となったとする説である。先ほどの『波動用語の基礎知識』でも、「萌え」に先んじて「燃え」としても紹介されているし、「オタクコンテンツ界では実は「燃え」がメインストリームで、ここ二十年の間に少しずつ「萌え」が台頭してきた」*6とも述べられている。また、斎藤環やいずみのにより、初期の青年向きアニメに戦闘ものが多かったことも指摘されている。まさに、戦闘に燃えることが、後に「萌える」ことへと繋がっていったといえるのではないだろうか。
 一方の「キャラクター説」はNHK教育テレビの番組の一部として放映されたSFアニメ『恐竜惑星』のヒロイン「萌」を語源、もしくは漫画『美少女戦士セーラームーン』のキャラクター「土萠(ともえ)ほたる」を語源とする説である。彼女らに対して、ファンが呼びかける際に使っていた「萌ぇ〜!」を、別の人が見て何か意味があるのかと考え、そこから使われ始めたというのが本説である。この説は、岡田斗司夫が正史として定めたり、斎藤環の著作の中にある。*7また、『同人用語の基礎知識』の中ではこの「キャラクター説」を起源として取り上げている。
 2つの語源説のいずれにせよ、「萌え」は混沌の中から生まれてきたと言える。そこから、徐々に意味が多様化し、90年代の後半には互いに、ある特定のものに熱を上げることからあるアニメやキャラクターに熱を上げること、もしくは特定のキャラクターへの呼びかけから、アニメやゲームのキャラクター全般への呼びかけと使用範囲が広まり、「萌え」がアニメ・ゲーム界の中で重要な地位を占めることになっていくのである。


 さて、「萌え」のその後の動きを見てみよう。アニメ・ゲーム界の中で重要な地位を占めるようになってきた「萌え」はインターネットの普及とともに爆発的な広がりを見せ、2000年代に突入する頃には、すでにアニメオタクならば知らないものはいない程にまで普及がされてきた。それと同時に、「萌え」の範囲も広がりを見せ、様々なものに「萌え」るようになってきた。詳しくいえば、「萌え」の対象がキャラクターそのものから、キャラクターの持つパーツへと変化してきたのである。それによって、「萌え」がより細分化されるようになってきたのである。
 同時に、今までインターネットであったり、アニメやゲームなど、二次元空間の中で取り扱われていた「萌え」が三次元空間に溶け出してきたのもこの頃からである。その代表例が「モーニング娘。」と「メイド喫茶」である。*8


 厳密にいうと、モーニング娘。が「萌え」を三次元空間に溶け出させてきたとは言えないかもしれない。しかし、モーニング娘。が「萌え」を誘発するきっかけを持ち、オタクがモーニング娘。に「萌え」を持ち込んだ、*9あるいは感じたこと、さらには事務所側が戦略として「萌え」を選択しているという点は指摘できる。
 モーニング娘。が「LOVEマシーン」をリリースし、再ブレイクを果たしたのが、1999年9月である。それまで、どちらかといえば音楽性を追究してきたが、これを機に大きくアイドル路線へと舵を切ることになる。さらには、2000年4月に第4期メンバーとして石川梨華吉澤ひとみ辻希美加護亜依が加入を果たした。今までの加入メンバーもテレビなどを通じてその素顔や弱点について繰り返し触れられていたが、ここから各人のウィークポイントや幼さが従来と比べて、大きく取り上げられるようになった。同時に従来のメンバーにも、より強いキャラクター性が求められるようになり、*10また彼女らはそれに応えていった。さらに、2001年頃から個々人の活動が増え、特別番組では個々人のキャラクター性にスポットが当てられることが多くなっていった。
 そして、モーニング娘。は様々な形でのメディア戦略をとっていくことになるのだが、強いキャラクター性とメディア露出の多さから、オタクは様々な形のモーニング娘。を見ることになる。そこで、想像力をかき立てるような要因の数々をヒントにして、オタクは自分なりのモーニング娘。像を作り上げられるようになっていった。従来のアイドルでは、想像力を膨らますにも、ヒントとなるキャラクター性や行動があまりに少なかったため、ファン内での似たような印象の共有に留まっていたものが、モーニング娘。の場合、要因の組み合わせ次第で、無限の「モーニング娘。」を作り上げることができたのである。この点について、モーヲタの思想家、斎藤進は「モー娘とはアニメである」としている。*11オタクに多様な想像が委ねられている点こそ、モーニング娘。が「萌え」を誘発する要因となった点である。また、そのようなメディア戦略を画策した事務所側は、オタクによる想像を許す「あそび」の部分を作っていた。「モーヲタにとって、モー娘とは、これ以上ない「遊び場」として機能しており、また、アップフロントも、そのような楽しみ方を推奨しているのだ」*12という指摘もある通り、事務所が「萌え」を誘発するように仕向けていたのである。これが「萌え」が三次元へと溶け出した要因の一つ目である。


 もう一つの要因は「メイド喫茶」の発祥と台頭である。98年8月の「東京キャラクターショー」内で、人気ゲーム『Piaキャロットへようこそ!!』を模した喫茶店がイベント限定で始められた。これがメイド喫茶の発端である。本格的にメイド喫茶がスタートしたのは2001年3月、東京秋葉原に「CURE MAID CAFÉ(キュアメイドカフェ)」がオープンしたことによる。当初はオタクの隠れ家的存在だったのが、程なくして人気店となる。というのも、それより前に、19世紀後半のイギリスヴィクトリア朝時代のメイドの姿に憧れを抱いていた者や、献身的なメイドの姿を描いた漫画『まほろまてぃっく』、前述の『Piaキャロットへようこそ!!』などのヒットを経ており、メイドさんに「萌え」る層はすでに一定数いたと考えられる。*13
 二次元空間のものでしかなかったメイドが、三次元空間に再現されている。これは一種のパロディでもある。概説本『メイド喫茶で会いましょう』では、「メイド喫茶の醍醐味は、本来アニメや漫画、ゲームなどにしか存在しない“萌えキャラ”としてのメイドさんと、リアル空間で楽しめることだ。//メイドカフェという現実と虚構とが曖昧模糊とした空間で“ご主人様とメイド”という関係がロールプレイできるのだ。」 *14と紹介しているし、現実と虚構の解け合った雰囲気を本田透は「二・五次元」*15と称したが、巧い表現である。二次元空間と三次元空間溶け合って「二・五次元」としてのメイド喫茶の存在は、「メイド萌え」と相まって、「萌え」が三次元空間に浸透してくる上で、重要なポストを占めることとなったのである。 こうして、「萌え」が現代社会に浸透する足がかりが十分にできた上で、最後の起爆剤となったのが『萌える英単語』(通称萌え単)と『電車男』のメディアリミックスである。前者の場合「萌え」でありながら、実用本*16としての体裁を成し、社会的にも「萌え」が受け入れられるようになったということ、後者は書籍、映画、テレビ、漫画、などの展開を通じて、「電車男」がオタクの代表であり、「オタク=萌え=アキバ」という単純等式が広く浸透していった。*17こうして、現代の社会に「萌え」は付随する様々な現象や物とともに瞬く間に浸透していった。2004年の流行語大賞に「アキバ系」と共にノミネートされたということは、その高まりの一つの現れといっていいだろう。このようにして「萌え」は現代社会や現代の若者を語る上で、今や欠かせないキーワードとなったのである。

2.3.「萌え」の範囲は広がり続ける

 ここまで「萌え」の歴史を振り返ってきた。一言にまとめると、90年代初頭に生まれた「萌え」は2000年以降、急速に現代社会へと浸透していったことが分かる。しかし、「萌え」の確立した一意的定義は未だに成立していない。
 そのような「萌え」に対して、様々な識者が持論として、あるいはその論理展開の必要条件として、または話の一展開として、「萌え」の定義付けを試みている。そこで、第三節では、様々な角度から"「萌え」の定義"を見ていきたい。


 まず、ガイドラインとして辞書的な意味から引用をしておく。三省堂『デイリー 新語辞典』には芽吹く「萌え」ではなく、本稿で取り扱っている「萌え」の意味を挙げている。
「(1)マンガ・アニメ・ゲームの少女キャラなどに,疑似恋愛的な好意を抱く様子。特に「おたく好み」の要素(猫耳・巫女(みこ)などの外見,ドジ・強気などの性格,幼馴染み・妹などの状況)への好意や,それを有するキャラクターへの好意をさす。対象への到達がかなわぬニュアンスもある。//(2)(1)が転じて,単に何かが好きな様子。または何かに熱中している様子。」
 ――当たっているような......当たってないような......
 2.2.で『波動用語の基礎知識』を引用したが、その中では「非常に熱狂的な様子。愛していること。」の他に特記事項はない。上の『デイリー新語辞典』の(2)と一致するのみで、(1)の意味が「萌え」の浸透とともに追記され、ついには中心的意味にすえられてしまった。だが、(1)の定義だけでは、明らかにこぼれてしまうものも多い。「少女キャラに恋愛的好意を抱く」と言い切ってしまうと、「萌え」る女性はみんなレズビアンなのか、「萌え」る男性はみんなロリコンなのか、「工場萌え」や「ジャンクション萌え」といった無生物に「萌え」を感じてしまう人々はどうなる、特に「「おたく好み」の要素......」というのも、オタクを無意識に「そういう人々」として扱っていないか......などといった、いろいろな疑問や矛盾が生じてしまう。いかに辞書といえど――いや、むしろ辞書だからだろう――「萌え」に関しては中途半端なもの、「萌え」のある一部分を引き出したものしか表現できていない。
 次に、集合知としては最大級、Wikipediaと「はてな*18から引用しておく。
Wikipedia*19
 「萌え」は様々な対象に対して向けられる好意的な感情を表すと同時に、それらを総称する用語であると言える。(中略) 具体的には、その対象は「架空のキャラクター」に限らず、俳優やアイドルなど実在の人物であったり、人以外の動物や無生物、無形の概念(音楽等)など多様性に富む。また、主体的に感じる感情の内容は、強いて一般的な言葉で言い換えるなら「何かに魅力を感じること」や「魅力を感じることで興奮すること」とも説明できる(中略)//実在の存在に対して用いた場合、対象があたかも架空の存在であるかのように偶像化されてしまう傾向が強く、また同性に対して用いる際も (中略) 恋愛感情というよりもユーザー各々の趣味・嗜好に近いと言える。


 辞書の意味に比べてかなりファジーな表現になっている。特に、概念的な部分においては、今あるすべての「萌え」を包み込むかのような定義付けであり、まるで、伸縮自在の範囲であるかのようである。それでも、Wikipediaでは繰り返し、その範囲の特定が難しいことが述べられている。「全ての用法を要約することは難しく、話者各々の後付け解釈などによって様々な分野に浸透していった結果、さまざまな意図・意味での用い方をされる傾向がある。」「認識・解釈・使用法について著しい個体差があり、適用範囲が広範・多岐にわたるため、現状では「萌え」の明確な定義を導くことは困難である」などとも記され、すべてを併せ持つ簡易な定義付けというのは、ほぼ不可能という位置づけになっている。百科事典、しかも誰もが書き換え可能という特殊な性質を持つ以上、このような定義になるのだろう。
はてな*20
・コンテンツ上のキャラクター(漫画・アニメ・ゲームなどの登場人物やアイドルなど)への抽象的愛情表現。それらに恋心、またはそれに非常に近い感情を抱く様子。対象は人物そのもののみならず、特徴や仕草、または状況に対して、またはその全てであったりもする。
・女の子の何かに対する「かわいらしくてうれしい」感情。
・特定のパーツ(眼鏡、ツリ目、ネコミミ、メイド服など。いわゆる萌え属性萌え要素)を備えたキャラクターに対する偏愛や強い愛着を抱く様子。(例:眼鏡っ子萌え)
・ある特定の傾向の性格(これも萌え属性に含まれる)を持つキャラクターに対する偏愛や強い愛着を抱く様子。(例:ツンデレ萌え,委員長萌え)
・主に幼女や美少女などといった、かわいらしいもの、いじらしいものを目にしたとき、脊髄反射のような感覚で起こる、生理的で原始的な感覚。魅了され、激しく心が動くこと。
・「脳内恋愛」の言い換え。この場合の「萌える」とは、「脳内恋愛を妄想する」ことを意味する。
・重要なのは、この萌えが、彼らがキャラクターに対する愛情を表明したりして盛り上がりたい、といった彼ら独特で共通の気分を簡単に説明できたがゆえに、特定のファン以外のアニメファンの間でも急速に広まり、萌えが彼らの共通言語となったことだ。
・そして、既に多くのオタクは「萌え」というフレーズを解体して多義的な用い方を好むようになっている。キャラクターに限らず、身近な異性や同性の「ちょっとした可愛い言動」に対しても「萌え」と言うし、パソコンや車といった非生物や、概念にすら「萌える」ことも少なくない。


 Wikipediaと比較して、より多義的な説明をしている。おそらく、存在する定義をすべて表記するようにすると、このようになるのかもしれない。*21もしくは、Wikipediaがすべてを統括しようとした定義を生み出そうとしたのに対して、「はてな」では箇条書きにされた項目の一つにでも当てはまれば、それも「萌え」というまとめ方をしている面に特徴がある。個々の「萌え」にいちいち言及はしないが、この集合体の雰囲気をつかむことが今後の議論のためにも重要である。また、これら記載事項が互いに干渉しあうことなく、*22しかも追記される可能性を阻碍しない形で定義が用意されていることは、Wikipediaと同じく、誰もが書き換え可能という特殊な性質を持つが故だろう。*23


 次に、有識者による「萌え」定義を引用していきたい。「萌え」る人々の中心に立つ一人であり、「萌え」の優位性を最も声高に叫ぶ本田透は『萌える男』の中で次のように定義づけている。「「萌え」とは「脳内恋愛である」」*24「心の中の「乙女」の部分*25を掘り起こして刺激を与える」*26といい、「脳内」や「心の中の「乙女」」といった表現など、自分の内面的な部分が中心になっている。
 医学博士の斎藤環は「萌え」についてこう定義づけている。「「そのキャラクターを好きな自分」そのものを戯画的に対象化してみせる言葉が「○○萌え」」*27その上で、「彼ら(=そのキャラクターを好きな自分)がみずからのセクシュアリティからも、そのような距離を置く」*28ものとしている。みずからのセクシュアリティから距離を置く、ということは自分自身を対象化して、分割しているということになる。同じ自分であるにもかかわらず、自分を見る自分がその時現れていることになる。
  かつて、オタクの国のスポークスマンといわれた岡田斗司夫は萌えについて「スタイルだと思う」*29と述べている。ここでいうスタイルとは、コンセプトがないことを特徴とし「こんな感じで」というコアのないものだというある一つの感覚を意味している。また、少し年を経た後の著作では、「メタ的な視点、外側にある視点までも含んでくれるもの。なおかつ、少女的な「可愛い」という完成を自分の中に取り込める」*30という"屈折した"感覚を表すのにたまたまあった言葉である、としている。
 他方、唐沢俊一は岡田との対談の中で「ただ女の子をみて、かわいくてかわいくて、ただ守ってあげたい、ただ幸せになってほしいとも思う。という感情を表す」*31としているが、一方で負の要素が必要とも言及している。しかし、別の場面では岡田に似た意見として「“わかる必要のない”個人的感覚嗜好」*32の中に「萌え」も含まれるという解釈を述べている。
 批評家東浩紀は「「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている」*33としている。東の論については2.4.で詳しく触れていくつもりだが、ここで最低限述べておくとすると、「萌え」を分解して分析している点に、他の識者とは一線を画する視点をみることができる。すなわち「萌え要素」の導入と「データベース」という存在である。
 萌えブーム中期の2005年に出版された『萌え萌えジャパン』の中で著者の堀田純司は「萌え」を以下のようにまとめている。「人の空想が生み出した形は、現実に汚されていない。現実の何かを継承してはいるものの、それは現実を越えて人のハートをがっちりとつかむ。そうした純粋な魅力の集積がキャラクターであり、この「この世のものならざる形象」へと抱く恋情にも似た気持ち」*34他にも何ヶ所かで「萌え」について繰り返し言及しているが、基本スタイルはこれと同じく「空想の集積に抱く」部分を主に主張している。


 次にインターネット上で発表された「萌え」についての言説をいくつか拾い上げておく。先ほども引用したが、斎藤進は『萌え☆ぼん』の中で「萌え=ケーキ」という理論を述べている。どういうことかといえば、ケーキを含むお菓子類は保存食、*35という本来の目的を持つことを例とし、「(萌えとは)恋という無限の可能性を秘めたものが、やがて日常にまみれ、その価値が相対的に低下していく「腐敗」を防止する装置である。萌えとは、恋という感情から出発するものがたどりつく「べき」の、ひとつの理想であるといえるだろう。」*36としている。
 「「愛」も「萌え」も定義は広い」と述べた押井徳馬は、前提として「「かわいい」は「相手にとって無害な存在」「親愛の情」のアピール」とした上で、「「萌え」とは、言葉を換えるなら「カワイイスイッチ」のようなもの」*37と述べる。つまり、「萌え」が対象物を無条件に「自分にとって無害な存在」と思わせ、受け入れさせてしまう、という構造が成り立っているということとなる。もちろん、対象物の「かわいさ」が決め手の一つであることは間違いないが、他者に対する警戒を無力化させてしまうという面は無視できない部分である。


 最後に、実際の使用例をみておきたい。第二章の冒頭で語った『らき☆すた』のように、最近の萌えコンテンツでは「萌え」を意識的に詰め込もうとしている傾向を、さらに意図的に狙ったパロディが起こることがある。一例としてキャラクター自身が「萌え」を意図した発言や行動を行うことがある。谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』では「涼宮ハルヒ」が「「あたしね、萌えって結構重要なことだと思うのよね」(中略)「萌えよ萌え、いわゆる一つの萌え要素。基本的にね、何かおかしな事件が起こるような物語にはこういう萌えでロリっぽいキャラが一人はいるものなのよ!」」*38と、ハルヒがまるで作者や読者の側に立っているかのように話すシーンがある。
 一方、美水かがみらき☆すた』では、実際に使用している場面が散見される。これらの場面を総称して言えることは、あくまで第三者視点にたって、「萌え」を使っていることである。例えば、「一見万能に見えて不得手をさらすことで影ですごい努力してるのを連想させるかがみ萌え」*39と話し相手の「かがみ」に向かって言っていることも、あくまでその場のことではなく、努力の連想は「こなた」の頭の中にしかない。


 以上、様々な識者や作品の中から「萌え」の定義や使用例を挙げてみた。これをいかに展開し、私の考える「萌え」につなげるのは、5節にまわすとして、次の節では「萌え」をもう少し解体しておきたい。一口に「萌え」と言っても、含んでいるものは多い。それをすべて一言で言いくるめようとすると、必ずその範囲にはムラがでてしまう。そこで、いわば「大きい萌え」を「小さい萌え」へと解体することで、より「萌え」について理解しやすくなると考えている。

2.4.「萌え」と「萌え要素

 第3節では、あらゆる識者の論や使用例をまとめ、「萌え」世界を取り巻く環境を帰納的にみてきた。次に、この節ではそれら「萌え」に対する言説を適応しながら、もう少し「萌え」をわかりやすくしてみたい。


  そもそもの多様性の一因として、「萌え」という言葉が文法上いろいろな形で使われているという点がある。本来、「萌え」とは動詞の語幹であったが、現在では名詞でもあり、感動詞でもある。さらに、自動詞的用法で用いられていたが、間接目的語をとることで受動的自動詞用法にも用いられるようになってきた。というより、むしろ最近はそちらの方が多い。例えば「メイド萌え」「工場萌え」といった、「(萌えを誘発するものや現象)+萌え」という言葉がある。この場合、「メイド」や「工場」が「萌え」ているわけではなく、「彼はメイドに「萌え」ている。」となるはずである。*40ところが、一方で「メイドは「萌え」る」とも言える。これは、「メイドが「萌え」を感じさせている。」という構造になっている。*41
 これを踏まえて論を展開するが、「萌え」がわかりにくくなっている大きな理由として、"あまりに一緒にされすぎた"という面がある。「私」が「萌え」るのか、「メイド」が「萌え」させているのか、という話もそうであるし、他にも、見えやすく尖った部分が「萌え」の中には多分に含まれている。分かりやすく言えば、「妹」→「萌え」、「オタク」→「萌え」、「フィギュア」→「萌え」と変換されているし、それら可視化できる現象に、さらにショッキングな現象がくっついていく。例えば「ロリコン」→「妹」→「萌え」であるし、「宮崎勤」→「オタク」→「萌え」であるし、「現実逃避」→「フィギュア」→「萌え」というように。この連想は大変乱暴な連想であるとは思う。しかし、そうやって何でもごてごてとくっつくけられたのが現在の「萌え」の領域であるし、それが意図するしない、好意的に見る見ないに関わらず「萌え」の領域を広げてきたからこそ、出来上がってしまったものなのだと思う。*42この広範な「萌え」の領域を、私は「大きな萌え」と名付けたい。「大きな萌え」は今日も進化し続ける。なぜなら、今日も新たなキーワードや要素が「大きな萌え」に取り込まれ、さらにその領域は拡大する。堀田純司萌え萌えジャパン』のインタビューの中で美少
女ゲームソフト流通大手会社の主任(おそらく当時)、若月氏は次のように語っている。「やはり大切なのは、お客さんにとって新しい「萌え」を提案することですね。」*43このように、常に新しい「萌え」が開発され、その領域は広がっていくのである。


 それ故に、テレビのワイドショーでしたり顔のコメンテーターが「フィギュア萌え族」「「萌え」は恋愛からの逃避行動」などと言ったり、行政が「オタクに気をつけよう」と呼びかける行為*44さえも、実は「大きな萌え」に含まれる一部分なのである。確かに、イヤな部分であるし、擁護派からみれば目を背けたい部分である。しかし、事実として事件は記録されており、彼らの切り取り方は完全に間違っているとは言えない。それに対して、僕ら擁護派が土足で踏み荒らされたような気分になるのは、彼らがWeb上での僕らの議論を横目にもみていない割に、自分の切り取り方があたかも「萌え」のすべてであるかのように語ってしまっているからだろう、と思っている。


 この「大きな萌え」に立ち向かっていっても、吸収されてしまい、「萌え」がなんだか分からないままになってしまう。私が「解体する」と述べたのは、つまり、これを分割してわかるようにしていく作業のことである。
 「大きな萌え」を改めて俯瞰してみると、まずネット上の議論に参加しているか否か、つまりWeb2.0の参加者であるかどうかという部分で一区切りつく。ネット上の議論を踏まえて言説している者はともかくとして、それさえもせず現実に現れた現象のみで「萌え」を語っていこうとする者と彼らの言説がここに含まれる。これは一応「大きな萌え」に含まれるとはいえ、中核にある「小さな萌え」と極めて親和性が低いため、「大きな萌え」の外側に位置している。*45これを「現実が扱う萌え」と名付けておく。昨今の猟奇的事件や異常現象といった現実の記録として残ったものもここに属している。これをまず分けてしまおう。
 次のゾーンが「現実に溶け出す萌え」である。「萌え」という現実にないものを、現実に表現してしまおうとした現象がこの部分に属する。「現実に溶け出す萌え」は現実と非現実のあいだにある性質、いわゆる橋渡しとなっている。その中身は現実に現れた作品とその核にある要素の集合体からなっている。
 具体例としては数々の「萌えグッズ」*46が上げられる。「アニメ」しかり、「ゲーム」しかり。なお、ここでいう「現実に溶け出す」とは、2.2.にて記した「三次元空間に溶け出す」とやや異なる現象であるということを注意しておきたい。ここでいう「現実」とは、あくまで今推移していく時間上に存在する「現実」であり、「アニメ」や「ゲーム」などヴァーチャル・リアリティとの対義語として使っている。


 ところで、この「現実に溶け出す萌え」を巧く解体するキーワードが、2.3.で取り上げた東浩紀の「萌え要素」を格納する「データベース」が存在する、という考え方である。
 現代のオタクの文化消費はデータベースから取り出された要素*47の集合体によって構成されている。と東は述べる。それが、先程も述べた「「萌える」という消費行動には、(中略)対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている」*48ということである。例えばここにAというキャラクターがいたとしよう。Aの行動、言動、環境等を読み解くことで、Aのデータベースにおける座標が瞬時に分かる。もしAが孤児であるならば、瞬時にそれは「孤児」の次元に[1]という値を持ってデータベースに格納される。言動が「いつも刺々しいが、たまに甘えてくる」のであれば、瞬時に「ツンデレ」の次元に[1]という値を持ってデータベースに格納される。また、データベースのなかで座標に位置づけられるのはキャラクターだけではない。Bという物語は学園を舞台にしているのであれば、それもまたデータベースの「学園」に[1]をとることになる。
 そして、最大のポイントは逆にデータベースから物語が作り出されてしまうところにある。無数のキャラクターの要素やシチュエーションがデータベースには記録されており、そこから「要素としての属性」を引っ張りだすことで、話の環境が整うのである。東はこれを「同じデータベースから無限に作り出される作品」*49として、「シュミラークル」と名付けている。そして、「オタク系文化では原作も二次創作もともにシュミラークルと見なされ、その両者の間に原理的な優劣はない//むしろ、作品の核は設定のデータベースにある」*50と述べている。そうして、データベースへの登録とシュミラークルの制作は相補関係にありデータベースがある限り、シュミラークルは無限に制作され続け、逆にシュミラークルが制作されればされるほど、よりデータベースは充実してくるのである。
 「現実に溶け出す萌え」が、なぜ現実と非現実の間に立つのか。その答えがこの二層構造性にある。つまり、「アニメ」や「ゲーム」といった現象として現実に現れているシュミラークルと、要素の集合体として現実にはないデータベースの2つから、この部分が成り立っていることそのものである。そして、シュミラークルとデータベースは互いに補いあう関係にある。現実も非現実も兼ね備えた部分なのだ。それゆえに、現実と非現実のあいだに位置するといえる。むしろ逆に、この位置にデータベースとシュミラークルの二層構造がなければ、「萌え」コンテンツはこれほど無数には現れることはなかったのである。


 そして、最後に残った中核の部分が、私がこれから結論として考察していきたい「小さな萌え」である。5節ではこの「小さな萌え」に関して、私なりの定義を述べることで、「萌え」とは何かの説明に対しての回答としておきたい。

2.5.「萌え」とはいったい何か?

 いよいよ、この章のまとめに入る。その前にもう一度ここまでの展開をおさらいしておこう。
 まず、「萌え」が現在使われているようなニュアンスで使われるようになったのは大体、80年代末〜90年代初頭である。そこからネット上を中心に広がり、2000年代に突入する頃には、三次元空間に溶け出してきた。その要因の代表例が「モーニング娘。」と「メイド喫茶」であった。そこに足がかりを作った「萌え」は『萌える英単語』と『電車男』のメディアリミックスを期に、現代社会に爆発的浸透を遂げたのであった。
 しかし、「萌え」に一意的定義は未だに存在しない。そこで、様々な識者や作品の中から「萌え」の定義や使用例を挙げてみた。雰囲気をつかむことはできたが、一口に「萌え」と言っても、含んでいるものは多いため「萌え」をより分かりやすく解体することを次の目標とした。
 そこで、私は現在の「萌え」の領域が大変広範であるとし、これを「大きな萌え」と名付けた。その上で、「現実が扱う萌え」「現実に溶け出す萌え」「小さな萌え」と各パーツに名前を付け、個別に言及を行っている。
 そして、この3パーツのうち、これから言及を行うのが、最後の「小さな萌え」についてである。


 それでは、「小さな萌え」*51とは何かについて記しておこう。
「<萌え>とは最も身近な信仰活動である」
 私は<萌え>についての定義をこのように規定する。「アニメ」や「ゲーム」、「萌え要素」といった言葉から、およそ似つかぬ言葉が出てきたが、<萌え>の中核にあるものはいかにも「信仰活動」である。


 2.3.で述べた識者の言論や実際の使用例から、3つのことが読み取れる。1つ目は対象物を無条件に受け入れるられるように、内面に何らかの隙を見せる影響を与える、という言説が散見される点である。本田の言う「乙女回路」や押井の「カワイイスイッチ」はそのものであるし、岡田の「少女的な「可愛い」という感性を自分の中に取り込める」という考え方もほとんど同一と言っていい。<萌え>とは、対象物を無抵抗に受け入れてしまう行為である。
 2つ目は必要以上に当事者になることを避けようとすることである。同じく岡田の述べる「メタ的な視点、外側にある視点」とは、自分自身がその内面とを切り離して、あたかも外側からみているかのような視点の置き方である。これは、斎藤環の「「そのキャラクターを好きな自分」そのものを戯画的に対象化してみせる」という言葉や『らき☆すた』の中で述べられる「一見万能に見えて不得手をさらすことで影ですごい努力してるのを連想させるかがみ萌え」など、<萌え>とはあたかも私はその場におらず、全く侵さない存在であることを証明する行為である。
 そして、3つ目は現実にはありえないような魅力的なものを生み出そうとしている腐心が指摘されている点である。堀田が「純粋な魅力の集積がキャラクターであり、この「この世のものならざる形象」へと抱く恋情にも似た気持ち」と述べていたり、斎藤進が「その価値が相対的に低下していく「腐敗」を防止する装置であるとしている。萌えとは、恋という感情から出発するものがたどりつく「べき」の、ひとつの理想である」と述べているところから、読み取ることは容易だろう。
 これら3つの要素を持つ行為とは何かと考えると、自ずから「信仰活動」が浮かび上がってくる。信仰もまた、対象物を無抵抗に受け入れてしまう行為であり、自分がそれを全く侵さない存在であることを証明する行為であり、現実にはありえない魅力的なものに気づこう(生み出そう)とする行為である。そこには、奇妙な共通性が見てとれるのである。
 はっきり言って、この私の定義付けにピンとこない方も多いのではないかと思う。単に好きだなどという意味を付帯させていたつもりの人は、いきなり変なことを当てはめて、と思うだろうし、そうでなくとも、何か例や別の識者の意見が聞きたい、という声も多いことと思う。しかし、今の段階では前者にしか答えない。後者の疑問には、また別の機会に改めて話を始めたいのだ。この結論は、次の話題に移るにあたって、重要な土台となるからである。ただ、このままではさすがに乱暴であるから、本田透の見解を紹介しておこう。
 実は、現実に溶け出している部分から<萌え>をみるという考え方は、本田透があみ出したものである。本田は言う。「「萌え属性」をコレクションして分類してみても、萌えの本質は何も見えてこない。」*52その上で、「メイド服という記号の向こうに、何がしかの理想=意味を見いだして萌えているわけなのだ。」*53と主張する。これが、私の「<萌え>=信仰」の正体である。


 それでは「萌え」とは信仰である、めでたし、と締めるのか、と問われれば、そうもいかない。「<萌え>=信仰」はあくまで私の、しかも「小さい萌え」の定義付けでしかない。では、「大きな萌え」とは何かといわれれば――改めて言う必要はないのかもしれないが――それは今まで上げた諸々の分野の集合体が、私の考える「萌え」の全体像なのだ。つまり、「信仰」としての側面があれば、「萌え要素の集合体」としての側面も持つし、究極的にはコメンテーターの言う偏見の部分も範囲に入る。我々は「萌え」について扱う際、その一部分を切り取って話をしているにすぎない。したがって、この背景にある広範な「萌え」についての理解がなければ、同じ「萌え」でもわかりあえないのは当然なのだ。使い手によってみている場所はすべて違うのである。
 さて、どれが本当の「萌え」なのか。信仰が本物で、猟奇的な面は嘘物か、と見る向きもあるかもしれないが、答えは「どれが本当の「萌え」というものはない」のである。というよりも、成り立ちから考えてみると、本当の「萌え」について語ることはある意味ナンセンスなのである。だからこそ、私は冒頭で「「萌え」に一義的な定義を確定させるのは不可能」と述べたのだ。つまり、テレビのコメンテーターの述べる「萌え」も涼宮ハルヒが「萌えよ萌え」というのも、本田透が「萌え」について語っていることも、すべて「大きな萌え」の中の一部を取り出して、それに言及したにすぎないのである。それでも、この3つの「萌え」はすべて「萌え」である。言うなれば、「萌え」の元では皆区別を付けず、平等なのである。
 その意味において、冒頭の泉こなたの発言は秀逸だ。「萌えってなあに?」の質問に対して、「好きってことの感情表現には違いないんだけど 私も詳しくはわかんないな――――」「ニュアンスで通じ合えるからいいんだよ」という答え。ともすれば「萌え」を分裂させかねない疑問を受け流しつつ、「萌え」は一つで、切り取って言えるものではないと言い切ったのだ。
 そう考えてみると「萌え」とは、やはりオタク的な概念を持っていると言える。岡田斗司夫によれば、「「オタクという共通概念」がなんとなくあった」*54「(アニメオタクや電車オタク、ミリタリーオタクを含めて)「オッケー、オッケー、それもオタク、これもオタク、そうそう、オタクってそんなもんだよ、それでオッケー」と言っていた」*55という程、同じオタクであれば、その差異は気にせずみんな一緒、という団結力があったという。そのオタクという概念でひとつになれる、という部分に「萌え」はかなり近いものを感じないだろうか。先ほどの岡田の言及の「オタク」の部分を「萌え」に替えるとそれがよくわかるはずである。
 しかし、ならば「萌え」もオタクがたどった道のように分裂してしまうのはないだろうか......!?「萌えが分からなければオタクではない」という風潮によって、オタクは分裂してしまった。これを岡田は従来のオタクと比較して、「オタクの定義は排他的になってしまった」。そして「オタク・イズ・デッド」と言ってしまった。


 実際のところ「萌え」は概念であり、存在としてあった「オタク」とは違うため、「萌え」の崩壊はないものと思う。「萌え」はそんな分裂を引き起こそうとするものさえ、内部に取り込んでしまうだろう。だからといって、僕らは近視眼のままではいけない。岡田は「簡単に人を排除する、(中略)自分たちが真ん中にいると信じて疑わない感覚」*56を持つ人のメンタリティを気にすると述べたが、同じことが「萌え」にも起こりつつある。それが私が繰り返し述べている「「萌え」のある一部分だけを切り取って、それが「萌え」だ」という風潮である。それでは拙いのだ。究極を言えば、我々は「○○もオッケー」という寛容の精神、認める心を捨てにかかってしまっているのである。
 人を認める場だったオタクは「すでに死んでしまった」。しかし、新たな場として「萌え」が現れてきた。我々は「萌え」が広範な範囲を持ち、「あれも萌え」「これもオッケー」とものを認める精神の手助けとなるものであることを忘れてはならない。だから、決して私の「萌え」と君の「萌え」は違うなどと言ってはいけないのだ。*57

*1:主な例として、旧陸軍の騎兵科の兵科色や佛教各宗派の僧都の僧衣の色など

*2:この辺り、Wikipediaを参考としている

*3:これが今に至るまで「萌え」にはっきりとした定義を定められない理由だと思うのだが

*4:仲間内での秘密の会話というものは、根付いてしまうと変に意味などを聞けないものである

*5:なお、本稿では統一して「萌え」という表記でこの単語を取り扱っている。現在一般的に取り扱われている使い方に倣ったつもりである

*6:本田 2005 p.18

*7:斎藤環 2000 p.60

*8:その他の例として、アイドル声優の台頭とコンサートの増加が上げられる。テレビアニメ放映の増加から声優数も増え、コンサートの述べ開催回数も増加、さらにはオリコンチャートでもリリースしたCDが上位を伺う例が増えてきた。例えば、赤松健の『魔法先生ネギま!』の主題歌である「ハッピー☆マテリアル」は異なるVer.が7作品リリースされているが、オリコンチャートでの初登場時は概ね10位以内である。オタクが大挙して買っているという指摘もあるが、いずれにせよチャート上位来ているという事実は疑いようのない事実である。

*9:例えば、徳間書店発行のアニメ雑誌アニメージュ』2001年4月号には『「娘。」系アニメに注目』との特集記事が掲載されている

*10:それ以前にも強いキャラクター性は個々人が持っていたが

*11:この話については「斎藤の萌え論 『萌え☆ぼん』 7.モー娘。と虚構主義 に詳しい 参考URL:http://d.hatena.ne.jp/eal/20080722 閲覧日 08/12/29

*12:斎藤進 2008

*13:茶店アンナミラーズのウェイトレスの制服がメイド服の走りであり、アンナミラーズメイド喫茶として既にあったという説もあるが、今日のメイド喫茶レベルのソフトサーヴィスはさすがに展開していない。

*14: 早川清他 2008 p.26

*15:本田透 2005 p.15

*16:その後実用本としては『萌える都道府県』『萌える元素』『ヘタリア』など、「萌え」が主に擬人化の手法の一つとして使われることが多い。

*17: いわゆるマス5媒体で好意的に捕らえられた初期の例としては2003年9月6日付、東京読売新聞夕刊での掲載が確認されている。

*18: ナレッジコミュニティサービス「人力検索はてな」やブログホスティングサービス「はてなダイアリー」などの開発・運営を行っている会社。本稿ではWiki形式によるキーワード作成システム「はてなキーワード」の記事を引用した。

*19:参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%8C%E3%81%88 閲覧日 2008/11/20

*20:参考URL:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%A8%A4%A8 閲覧日:2008/12/09

*21:ここに上げた意味も数ある定義の一部分。

*22: もちろん、含みあうことは多々ある

*23:ちなみに、Wiki形式のWebページを利用してまとめられる点は、このような部分に利点があるのだろう。特に、意味の付帯がまだ曖昧な新語は、議論、記録、保存がある特定の領域でできるというWikiは理想的な環境であると言える。

*24:本田 2005 p.81

*25:これを本田は「乙女回路」と述べている。

*26:本田 2005 p.16

*27:斎藤環 2000 p.60

*28:斎藤環 2000 p.60

*29:岡田・唐沢 2007 p.94

*30:岡田 2008 p.100

*31:岡田・唐沢 2007 p.97

*32:岡田・唐沢 2007 p.259

*33:東浩紀 2001 p.76

*34:堀田純司 2005 p.18

*35: ここでいう「ケーキ」とは、生クリームの乗った要冷蔵のショートケーキ類ではなく、ドイツのシュトレンなどを代表とするパウンドケーキを指している。

*36:斎藤進 2008 p.75

*37:押井徳馬 2008

*38:谷川流 2003 p.60

*39:美水 2005 p.35

*40:厳密に言うならば「メイドは彼を「萌え」させている。」という文の受け身形として先に上げた文が成り立っている。

*41:......よくよく考えてみると、同じことになっているような気がするかもしれないが、メイドに向かって単純に「萌える」と言った際、それは「私は萌えています」という自白なのか、「メイドは萌えさせています」という評価なのか、どちらかなのかと考えてみると面白いかもしれない。

*42:インターネット内での言説や議論、Wikiなどのツールの発展が今日の「萌え」の発展に寄与したことは間違いないだろう。この点、斎藤進は「Web2.0環境がなければ萌えもここまで大きくなることはなかった」として、その強い親和性を『萌え☆ぼん』の中で発表している。

*43:堀田 2005 p.211

*44:「呼びかける好意」などと書くと、この文脈ではツンデレっぽくなるな。面白い。

*45:「大きな萌え」の外側にいけば行く程、現実との解け方が著しくその分見えやすいというとわかりやすいかもしれない。

*46:「萌え」の導入となるシステム。後述するシュミラークルと同じ。

*47:これを、東は「萌え要素」と名付けている。この「萌え要素」という造語は、その後「萌え」を語る上で欠かせないキーワードとなった。

*48:東 2001 p.76

*49:東 2001 p.79

*50:東 2001 p.91

*51:ここからは、便宜上これを<萌え>と呼ぶ。「萌え」と<萌え>は違うものとしてお楽しみください。ここで、<萌え>は「萌え」の中核でしょうと思った方、正解

*52:本田 2005 p.86

*53:本田 2005 p.86

*54:岡田 2008 p.38

*55:岡田 2008 p.111

*56:岡田 2008 p.33

*57:クルアーンの中に<<英知と良い話し方で、(凡ての者を)あなたの主の道に招け。最善の態度でかれらと議論しなさい。>>(蜜蜂章 125) という章句がある。別のところでは、「人間はひどく論争好きである」という内容で下っている部分もある。我々の議論好きという面は今に始まったことではない。自分の想いと違うことを言われるとついカッともなる。だから、せめて常に「最善の態度」で議論に望むことが大切なのである。「萌え」に関する言論というのは、常にそうあってもらいたいと願うのである。なぜなら、「萌え」こそが「そのようなもの」だからである。