そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

第三章「萌え」の有用性と不都合な真実

 「萌え」とは何か。第2章までを読んでくれた方なら、すべてお分かりだろう。ここからは「萌え」を私が仮定したようなものであることを前提にして、話を続けていきたい。
 さて、そのような「萌え」には、メリット・デメリットは存在する。続いて、そのメリットとデメリットを明らかにしておこう。

3.1.萌えの有用性

3.1.1.「明らかに救われる人がいる」

 先ほど「萌え」の一部分に「信仰」という面があると述べた。一部の人はそれに気づいていて、例えば先ほどから何度か引用している本田透はいち早くそれをキャッチし、「萌え」る人々に向かって、論を発表した。それが『電波男』であり『萌える男』である。そして本田は言う。「「萌える男」は正しい。」*1と。
 これを受けて対談を行ったのが岡田斗司夫唐沢俊一である。彼らは『オタク論!』の中で「本田君も「萌え」とか現実の恋愛が得意じゃない人の気持ちをうまく代弁している。(中略)明らかにそれが発表されることで、救われる魂が大量にある」*2と述べている。既存の価値観の中では救われなかったり、虐げられたりしていた人々が、「萌え」ることによって救われるようになったというのだ。
 本田によると「萌えの潮流の一部は確実に「脱・恋愛」「恋愛に変わる価値」を指向しており、」*3「その閉鎖的な現状を打破するための一つの思考実験運動として登場してきた。」*4という。また、「万人に可能な開かれた道」*5でもあるという。「萌えは信仰でもある」という仮定を参考にしてみるとわかりやすい。「萌え」は恋愛に変わって現れた「万人に可能な信仰」となるわけだ。過去の信仰や恋愛との関係については第四章で厳密に取り上げるが、ここでは「万人が救われる信仰」ではないかという可能性と、含みを持たせたままにして締めておく。
 少なくとも、冒頭で紹介したかつての私のように「萌え」によって「明らかに救われている人」がいる、ということが分かってもらえればここでの私の目標は達成できたといえよう。

3.1.2.語られるテキスト

 続いて、より分かりやすい特徴に迫っていこう。萌えコンテンツをとり上げると、たいてい猥雑な面やグラフィクスが注視されることが多いが、実際のコンテキストではいったいどのようなことが書かれ、描かれているのだろうか。これは、見えやすい面をみて語るのであるから、見えやすい部分にしか目が届かない人にも分かりやすい話となっていることと思う。
 私が萌えコンテンツから浮かび上がる言葉に注目するようになったきっかけは、PCアダルトゲーム『処女はお姉さまに恋してる』(以下、便宜上『おとボク』と表記)の中に隠されている主題を知ってからである。私は過去に、このゲームが持つテーマが次のようなものであるとした。

「決して、介入を恐れるがあまり、自らの外的要素で他者を歪めてはならない。物事に対して積極的に関わり、他者との関係の中で心情に触れる勇気と責任を持つこと。自分がそれで傷ついても、それを理解して恊働して解説策を生み出し、『強い絆』を築いていく。それが本当の優しさである」*6

 これは、大作家の名著でもなければ、誰もが感動したドラマでもない。ただのゲームの一部分を切り取ったものにすぎない。だが、どうだろう、このテーマは。これを社会の中で巧く実践できれば、他者性を無視した犯罪は起こらないだろうし、他者との距離がうまく取れない人*7にとっては、社会にとけ込む上で、何らかの指針となるだろう。したがって、このテーマを一つ読むだけでも、気づかされることは沢山ある。
 しかし、そんなに都合よく読み取れるものではない、という指摘もあるかもしれない。では、次の2文を読んでもらいたい。

「普通『恋愛』ってのは相手を自分好みに変えるか、自分を相手好みに変えるほどに努力するまで終わらないゲームみたいなものだ......変わっていく『努力』そのものとも云えるかな」*8

「モットーは寛容と慈悲」*9

 これらはいずれも、『おとボク』の台詞や設定から引用している。いずれも、現代人が失っていたり、忘れていたりすることではないだろうか。精神科医の大平健が述べるように「恋愛には自分の価値観をいったん白紙に戻して、相手とともに新しい世界を築く心積もりが必要」*10なのにもかかわらず、「実は今、一般人にも恋愛音痴が増えています。」*11という指摘がなされている。「変わっていく「努力」」を放棄し、他者との関係性を葛藤が起きない程度に、”テキトー”にこなせばいいという風潮は広まりつつあるのだろう。これでは「寛容と慈悲」は自分自身に向けられたままになってしまう。*12
 『おとボク』の作者嵩夜あやは『櫻の園のエトワール』のあとがきの中で次のように述べている。

「この「おとボク」というお話は、私たちが忘れがちになってしまう「優しさ」を前に押し出したお話が多く含まれています。//人の「優しさ」は今の私たちには笑い事だったり、莫迦にされる対象になったりしますけど、それでも人はやっぱり、ちょっとくらい他の人に「優しさ」を分けてもらえないの楽しくないですし、幸せな気分にはなれませんよね。(中略)ですから少しでも、読んだ皆さんを奏や薫子たちと一緒にそんなことを考えて貰えるなら嬉しいかな、なんて思います。」*13


 いかがだろうか。このようにPCゲームには猟奇的な面だけではなく、現代社会において生きていく上で役立つテキストも数多く見られるのである。

3.1.3.卑近な可視特性

 「萌え」は現象として現実に溶け出している。という話は2.4.で触れた。だからこそ見えやすい、というのは大きな特徴である。ちょっと本屋に行っても、ちょっとテレビを見ても、「萌え」現象は至る所で見られるし、秋葉原に行けば、”溶けているまさにその現場”を見ることができる。視覚に頼りがちになる人間にとって「見えやすい」ことは何よりのメリットである。この「萌え」の見えやすいという特徴を、私は「卑近な可視特性」と名付けたい。
 可視特性というのは、物事を非常に分かりやすく伝えるのに役立っている。「百聞は一見に如かず」のことわざ通り、聞くよりも見る方がよりはっきりし、より分かる人が増えることは自明のことだ。これは「萌え」にも直接当てはまる。「記号性の強い子の方が人気がある」「萌えは簡単。分かればいいんです。萌えればいいんです。」*14という岡田の指摘は、気軽に「萌える」人になれることを示唆している。別の言い方をすると、間口が相当広がるということである。
 実際のところ、私自身、この卑近な可視特性を間口にして「萌え」がスタートした。スタートはモーニング娘。という話は第一章で紹介したが、「萌え」だしたきっかけは歌ではなく、その容姿に対してであったりする。まさに、見える部分であった。しかし、それを間口として『おとボク』なり『らき☆すた』なりのコンテンツと出会っている。
 私と同様に多くの人が、卑近な可視特性という間口から「萌え」に足を踏み入れるようになった。それを足がかりにして、深く考えるようになり、寛容と慈悲とは何か、などと考えることもできるようになるのである。これは裏を返せば、誰にもチャンスがある、ということに繋がっている。

3.1.4.誰もが平等な共有共同体

 2.5.にて、私は「「萌え」の元では皆平等である」とし、「私の「萌え」と君の「萌え」は違うなどと言ってはいけない」と述べた。これは「大きな萌え」の中では、まさに「萌え」としての差異はない、そんな差異をも吸収してしまうのが「萌え」だと述べたつもりである。


 そのような誰もが平等な共同体が理想的な形で体現されている例として、世界最大の同人誌即売会コミックマーケット」(以下、便宜上コミケットと略称)を少々取り上げたい。1975年に第1回が開催されたコミケットは、その後順調な成長を続け、2008年年末の第75回コミケット(以下、便宜上C75と表記)まで途切れることなく開催されている。今やその規模は日本最大のイベントであり、C75では3日間で延べ51万人の来場者数を記録した。参加者は同人誌の購入や参加者同士の交流などを通じて、取り扱う作品とその世界観、もっと広くいえば共有財産としての「萌え」を共有することができるのである。*15 *16
 コミケットのさらなる興味深い点として、出展者として参加する側と購入者として参加する側に意識の差がないという点があげられる。具体的にいえば、店と客という関係ではなくてあくまで互いにイベントの参加者である、という意識共有がなされている点である。それは「コミックマーケットに「お客様」はいない」「参加者全員はすべて平等」*17というコミケットの理念にも現れている。また、51万人の「来場客数」ではなく「来場者数」と称している部分にもまた然りである。出展者も購入者も関係なく同様に参加しているという意識共有が自然となされているおかげで、これほどまで大きなイベントであるにもかかわらず、今まで途切れることなく続けられているのではないだろうか。これも一つの「平等な共同体」ゆえに、成り立っていることではないかと思っている。*18*19


 また、コミケット以外にも、インターネット上に上げられたサイドストーリー*20や、「youtube*21ニコニコ動画*22を利用した動画や楽曲の共有というのも、人々の共有財産であるといってもいいだろう。今までに現れたコンテンツは既に数えきれないほどあり、それがすべて共有の財産として「萌え」の一部に保管されている。そして、その財産を個々が平等に持っていられるように、データベースと共同体が形作られているのである。
 データベースに金字塔を打ち立てた、あるいはそれを利用したシュミラークルが大ヒットしたとしても、他の消費者と変わるところはない。確かに、作り手は消費者から賞賛されるだろう。しかし、両者は同じデータベースの共有者としてあくまで対等なのである。


 さらに、知識の優劣で尊大になったり無下に扱われたりすることもない。例えば、オタク的趣味を持つ大学生とそのサークル活動を描いた『げんしけん』では、彼らのオタク談義が、優越感や劣等感とはまるで無縁である部分が興味深い。漫画やゲームの話であっても、彼らにとっては重要な事項であるため、より知っている方がステータスとなってもおかしくないのだが、実際は「いくら蘊蓄を傾けて得意になっても、尊大にならない。(中略)知識のない相手をバカにせず、純粋に話すことを愉しんでいる」*23となっている。他にも、「今、しゃべくりたいだけなので気にしないで下さい」*24 という風に、あくまで披露したい優越感とは無縁に、「好きなことには饒舌に」*25なるだけなのだ。*26
 その点、本田透も「そこ(=「萌え」という精神活動)には勝者も敗者もない。誰もが等しく平等に救われるのである。」*27と述べていて、まさに「萌え」が誰もが平等な共有共同体を作っているとしている。そう、「萌え」は拒まない。僕らが受け入れる範囲を狭めなければ、「萌え」は狭まることはなく、弾くこともないだろう。緩やかな「萌え」の共有を感じて......少なくとも、『げんしけん』のように知識の多少に優劣を付けることなく、コミケットのように立場の違いに優劣を付けることなく、誰もが同じ「萌え」共同体に属していると受け入れていれば、きっと大丈夫であろう。*28

3.2.「萌え」の不都合な性質

3.2.1.大きな物語の忘却

 「大きな物語」とは、ポストモダンの思想家ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」からきている。20世紀半ばまでの近代国家では、様々な社会システムが整備され、その働きによって社会が運営されてきた。そのシステムは国民の思想、政治、経済、などあらゆる面で統率をしていた。「大きな物語」というのは、このシステムの総称のことである。しかし、時代がポストモダンに入ると、統率に齟齬が生まれ「物語」の纏まりが弱体化することとなった。東浩紀はこれを踏まえて「ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げるオタクたちの振る舞いは、まさに、大きな物語の失墜を背景として、その空白を埋めるために登場した行動様式であることがよく分かる。」*29と「大きな物語」の失墜こそがオタクの生まれた背景にあるとしている。しかし、その反面「内在的な他者と超越的な他者の区別」がうまくできないオタクは、伝統によって保持されてきた「社会」や「神」をうまくとらえられずに、サブカルチャーを題材にした疑似宗教にたやすく引っかかる、とした。
 これが「萌え」最大の欠点である。「大きな物語」が失墜してしまった(ことにしている)ポストモダンでは、超越的な他者を感じることが難しい。すると、実は内在的な他者もぼやけていく。その境界線が曖昧になるため、分ける線がなくなってしまうためである。そして「萌え」とはこの境界線を完全に無視し、内在的な他者超越的な他者としてしまう行為なのである。
 この話は、第五章で改めて展開するため、ここでは「内在的他者と超越的他者」とのカオスが起こりうるとして、いったん締めておく。
 2.以降は現実に現れた面の不都合性を取り上げておきたい。

3.2.2.脆い構造性

 萌えコンテンツはクリエイターが作り出した戯曲であるから、当然そこにはクリエイターという、人間の主観が入る。そのため、クリエイターの気分一つで展開が劇的に変わるという非常に脆い構造性を持っている。自分が想像していた展開とまったく違うではないか、という危険性である。


 '95〜'97にオタク界にブームを巻き起こした『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、エヴァと略称)は、最初オタクの欲求を満たすかのごとく「オタク文化の集大成」ともいえる作品だったが、*30のちにテレビ版、映画版の監督が「アニメなんかに逃避するのはやめて、現実に帰れ」と「オタク否定」を行ったのである。これがオタクたちにとって、巨大なトラウマを生み出す要因となってしまった。
 そんな、トラウマを感じてしまった人など、次のように語っている。「自分のレゾンデートルを破壊されてしまった」*31「僕などはエヴァという二次元の世界にも「現実に帰れ」と突き放され、現実の三次元世界では女性に見向きもされず、二次元と三次元のどちらにも居場所がないという惨めな有様だったのである。当然僕は鬱に陥った。」*32と記しており、これは萌えコンテンツが脆く、すぐに返されてしまうという特性を持っていることの証だと言える。
 他にも、武梨えりの『かんなぎ』では、ヒロインに主人公とは別の恋人がいて「非処女」であることが作中で描かれたり、*33前述の『おとボク』では、アニメ化するにあたってPCゲームとまったく違う構造性を伴うようになってしまった*34など、そういった例は数多い。作画崩壊*35も数知れない。


 そもそも、萌えコンテンツは常に脆い構造性と隣り合わせであった。アイドルという萌えコンテンツは、男女関係などのスキャンダルで一瞬にして崩される脆さを抱えていたし、さらに以前の持ち物に「萌え」ていたころなど、新製品が出てくるたびに、新しいものへと「萌え」対象は移り行くのであった。さらに、すべてのものは劣化していくため、いつかは崩壊してしまうのである。
 「萌え」に限らず、モノはエントロピーの増大に従って、崩壊への道をたどっている。ところが、萌えコンテンツは可能なまでに純正化されたが故に、崩壊がないかのように錯覚してしまう。この脆い構造性に気づかないまま、信じきってしまうところに、大きな怖さを感じるのである。

3.2.3.卑近な可視特性

 「萌え」は現象として現実に溶け出している。だからこそ見えやすい、「見えやすい」ことは何よりのメリットである。という話は3.1.3.で触れた。ところが、卑近な可視特性は必ずしもメリットだけというわけではない。むしろ、「見えやすい」が故のデメリットもある。近すぎるため「見えやすすぎる」という部分であり、だからこそ、私はわざわざ「卑近な」と定義しているのである。
 見えやすいことは、自分の見たものにとらわれやすいという問題点を持っている。「百聞は一見に如かず」とは言うものの、では一見で済むのかというとそう簡単にはいかない。物事の本質を見極めるには、見るだけでは覚束ない。もっと裏のもの、背景や原因といった根本の部分を垣間みようとしなければならない。*36
 むしろ、見えているもの、現象として現実に現れているものだけを見るだけでは、物事の本質を見誤る。思えば、マスコミは少女を狙った猟奇的殺人を見て「犯人はオタクの仕業」といい、犯人の部屋からアニメの一本や二本でも見つかれば、警察は鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てる。*37 そんな早とちりとネゴシエーションを、我々はさんざん見聞きしてきたのではないだろうか。


 同じような早とちりが「萌え」でも生じている。3.1.2.では、テキストの有用性について述べたが、これに気づくのにはなかなかの障害があって、その一つが注目を浴びやすい猥雑な面やグラフィックスである。テキストよりも、見える絵のほうに気を取られてしまい、テキストに気づかない、あるいはテキストや背景は理解できるのだけれど、それが行動にまで移らない、絵の方がいいや。と思ってしまうという危険性を常に孕んでいる。このように、見えやすさは諸刃の剣である。この段階に留まってしまうと、テキストの有用性には気づかないままになってしまうのである。
 最近の「萌え要素」を並べて批評するだけ、という風潮も、卑近な可視特性への捕われを助長しているのではないかと思っている。もちろん、データベースの整理を目的として「萌え要素」を系統立てる必要性はあるし、これは否定しない。しかし、系統立てられた「萌え要素」を見るだけでは、それは「萌え」の一部分でしかないことに留意しておかなければならない。系統立てるだけで「萌え」全体を語ることは、「メイド萌え」「妹萌え」などの「○○萌え」だけで「萌え」の全体を語られているような、そういう気味の悪さと変わらないということには気づいておくべきだろう。

3.2.4.内部の無い特殊構造性

 「萌え」の不都合性について述べてきたが、ここまで、主に作品(=シュミラークル)が有する問題点を上げてきた。シュミラークルは移ろいやすく、また要素にとらわれやすい。とはいえ、これまでの問題は「大きな萌え」を理解していれば、それほど厄介な問題とはならない。「脆い構造性」は次にまた新しいシュミラークルを作ればいいのだし、卑近な可視特性へは、絵だけではなく文字も楽しめるようになれればよい。もっと広い範囲で「萌え」を捕らえられれば、それで問題ないはずである。ちょうど我々が、神社仏閣に祀られている木像や石仏を見ながら、神や仏を想起するかのように。*38


 ところが「萌え」の不都合な本質はそれだけに留まらない。実は「萌え」の不都合性は「小さな萌え」にこそある。何故、それが今まで見えていなかったのか。というのも、「萌え」は幾重にも折り重なった構造性を持っており、しかも非現実の世界から現実に向かって強力な力を持ったものを溶け出させている。そのせいで、「萌え」の中心に近づくことは並大抵のことではなかった。たいていの話題は、そこに行きつくことなく、切り上げていたものが多い。そこに近づく程戻れないのではないかというどうしようもない不安が襲ってきたからかもしれない。しかし、現実と非現実を切り分けることでなんとか「萌え」の核が見えてきた。いや、見えてきたというと語弊がある。何故なら「萌え」に核はないからである。そして、これが「萌え」最大の不都合な真実である。


 私は2.4.と2.5.で「萌え」の内部構造について語ってきた。「大きな萌え」を分解して「小さな萌え」という概念を生み出した。ところが、肝心の「小さな萌え」の構造に関しては、「それが信仰活動である」と定義しただけで、お茶を濁してしまっていたことに気づいた方もいるだろう。結局「小さな萌え」とは何か、という問いの解に。「信仰」とは、あくまで「小さな萌え」に「到達しようとする/した」人間の行動にすぎない。
 もっと詳しく語っていこう。広範な萌え領域が巨大な円であると仮定してほしい。これを便宜上A円と呼ぶ。 その球体の中に少し小さめの円があるとする。これを便宜上B円と呼ぶ。このA円とB円のあいだにあるスペース部分、これが「現実が扱う萌え」である。同様にして、B円の中にさらに小さめの円があるとし、これをC円とする。するとB円とC円のあいだにある領域、これが「現実に溶け出す萌え」である。先ほど、私は「現実に溶け出す萌え」の内部にデータベースがあると説いた。これはB円とC円のあいだの領域のC円よりの部分一周を覆う形になる。では、C円の内部にあるものは何か?となる。確かに、C円という区切りはデータベースのが周りを囲っているのでできている。しかし、C円、つまり「小さな萌え」の中には何もないままなのである。


 何もないのだから、何も向こうから発信してはくれない。だから、信仰しても、何も語ってはくれない。「萌え」とは宗教的な構造性を取りながら、実は核のない一番重要なものの抜けた入れ物でしかない。似たような例としてGoogleを始めとした検索エンジンを上げておこう。検索エンジンを利用すれば、インターネット上で繋がったあらゆる情報を短時間のうちに取得することが可能である。それこそ、世界中で今何が起きているかをすべて知ることも可能である。まさしく「現代の神」という言葉も頷けることだろう。この部分では。しかし、インターネットも強固なデータベースを持ちながら、ワールド・ワイド・ウェブ側から働き掛けてくることはない。amazonの「おすすめ商品」やgoogleの「もしかして」機能などあるではないか、と反論する向きもあろうが、あれも膨大な購買者のデータや過去の検索が基になっているだけであり、ワールド・ワイド・ウェブが自律的にはたらいているわけではない。結局、それで何を調べるか、いかに活かすかは人間にかかっている。投げたボールが返ってくるだけで、ボールを投げてくることはないのだ。


 「萌え」の信仰構造もこれを同じである。あくまでこちらが主体的に萌えキャラに対して発信をしたときに限り、萌えキャラは返信をくれるのであって、萌えキャラが自発的に発信するわけではない。フィギュアなどその典型で、こちらが想像という発信をしない限り、造形物は造形物のままなのである。この節の冒頭で、「もっと広い範囲で「萌え」を捕らえられれば、それで問題ないはずである。ちょうど我々が、神社仏閣に祀られている木像や石仏を見ながら、神や仏を想起するかのように」などと書いたが、実は「萌え」が想起しているものは、自分が想起したものにすぎない。神や仏といった他者的要素を持つものとは、明らかに違うのだ。
 話を元に戻そう。人間が生きていく上で、究極に必要なものは何か。それは、いなければならないという自己の必要性、いわゆるレゾンデートルである。もし、自分があらゆるものから必要とされていない状況に陥ったら、いる意味がなくなってしまう。レゾンデートルの喪失は、他者との関係性の中で生きている人間にとって、抹消を宣告されたも同然と言っていい。では「萌え」では、誰がレゾンデートルを与えてくれるのか。それは自分自身である。ボールがはね返ってくる様子そのままに、自分から送信した「萌え」が、萌えキャラクターから「レゾンデートル」として返信される。それも、自分の思うままに。


 とりあえず、いったんここまでをおさらいしておくと、「萌え」には信仰としての側面はあるものの、その核にあるものがない。そのため、自分から送信した「萌え」が、萌えキャラクターからレゾンデートルとしてそのまま返信される。萌えキャラクターが自律的にレゾンデートルを送信してくるわけではない。これは神や仏とはかなり違う点である。ということであった。さて、ここからいよいよ「萌え」の不都合性とその昇華について述べていくところなのだが、このままでは「萌え」派の分が悪い。
 「萌え」に関して構造(=what), 有用性、不都合性(=so what)は踏まえた。となると残りはWhy、つまり何故である。*39 そこで、第四章では、何故「萌え」なければならなかったのか、を歴史的な側面から追っていくことにしよう。それまで、いったん不都合性の結論はクールダウンさせておく。*40

コラム2......『らき☆すた』の街、埼玉県鷲宮町に行ってきた。(前編)

 2009/1/10、土曜日。ちょうど明日の日曜が一日自由に使えそうになった。卒業論文の追い込みをしなければならないのは分かっていたが、体を動かしたかった。明日どこかへ出かけようか。しかし、あまりしんどいこともできないし、それほど遠いところにも行けないか......
 などと思いつつ手元の資料に目を落とすと、ちょうど『らき☆すた』の表紙が目に入った。そういえば、本編で鷲宮の話は少し触れているけれど、恥ずかしながら実際に行ったことはなかったな......


 というわけで、翌日の鷲宮ツアー決定。


 日曜日十時頃に家を出る。もう少し早めに出ないと散策できないと思いつつ、まあ中心の鷲宮神社だけでも行ければ御の字だと考える。なにしろ、家から鷲宮までは大体2時間半程かかる。というわけで、この時間を利用して『らき☆すた』と鷲宮町や神社の関係の話を簡単に押さえておこう。


 そもそも『らき☆すた』の舞台が鷲宮近辺にあるとはっきりしたのが、アニメ版のオープニングシーンで、神社とおぼしき風景をバックにキャラクターの一人「柊かがみ」が歩くシーンであり、この風景の元となったのが鷲宮神社である。これを見て、ひっそりとファンが訪れ出したのがアニメ放映開始直後の2007年の4月ごろからで、アニメ作品が評価を得るに従って、「聖地巡礼*41と称して鷲宮神社を訪れるファンが増えていった。当初は、住民を中心に困惑気味でもあったそうだが、当の鷲宮神社側はファンに対しても分け隔てのない、広い心遣いを持って対応している。
 また鷲宮町商工会は、この機会を広くビジネスチャンスとして捕らえている。彼らはアニメファンにヒヤリング調査を行い、『らき☆すた』版元の角川書店との渉外を経て、2007年の12月に鷲宮神社を舞台にイベントを催している。そこで3,500人を動員したという確かな実績を上げた商工会では、その後ほぼ通年で『らき☆すた』を絡めた販促キャンペーンを行っている。その販促キャンペーンが色々なところで取り上げられ、鷲宮町はいわゆる「萌えおこし*42の代表例にまでなった。これはマーケティングや地域経済活性化の一例として取り上げられるだけではなく、新たなるツアーリズムの創成にもなると、北海道大学准教授の山村高淑など、鷲宮町の動向に注目している研究者も多い。*43
 鷲宮神社の注目の度合いを考える上で一つ有力な手がかりと言えそうのは、ここ3年間の初詣参拝客数の急激な増加である。アニメ放映終了直後の2007年正月の参拝客数は12万人程であったが、2008年の参拝客数は30万人、2009年の参拝客数は42万人にまでふくれあがった。すべてが『らき☆すた』効果とも言えないだろうが、劇的な変化を与えたのは間違いないはずである。


 そのような『らき☆すた』に沸く鷲宮町だが、実際にはどのような様子なのだろうか、などと考えながら電車を降りると押上だった。まだ大分電車に揺られなければならない。埼玉の中部は遠い。
 そこから1時間程かけて、ようやく東武伊勢崎線鷲宮駅に降り立つ。予想以上の人が降りたため少し驚く。自動精算機が無いので、改札口で清算すると1300円程かかった。神社の方へ向かって駅前へ出ると、なにもない郊外の住宅地の駅といった様子である。少なくとも商店はほとんどない。とりあえず神社の方へと歩いていく。しばらく行くと、一軒のそば屋が見えてきて、掲げてあったのは『らき☆すた』の幟だった。さらには、販促用のタペストリーやポスターなどでも盛んに『らき☆すた』のキャラクターが使われている。さっそく、使われている例が見られた。
 そば屋には帰りに寄ることにして、先に神社の方を目指す。参道に出ると、渋滞がかなりの長さ延びていた。それを横目に見ながら神社を目指したが、車のナンバーが大宮を中心に*44多彩に連なっている。それを楽しみながらしばらく歩くと、鷲宮神社が現れた。思っていたよりも小さい。その隣には商工会が主導で古民家を改築した大酉茶屋があって、外まで列が延びていた。さらにその横には掲示板が備え付けられていた。42万人の参拝客数を喜ぶ柊一家の絵と、その下には石でできた絵馬が並びおかれている。


 神社の中に入ると、前方に社があることは分かったが、その前に長い列が延びていた。それに見えている社に比べて、手前の破魔矢やお護りを取り扱っているところがずいぶん大きい。おそらくこの列は、お祈り列なのだろう。せっかく遠い距離をわざわざやってきたのだから、私も並ぶことにした。
 それにしても列が長い。30分程待ってようやく先頭が見えるかどうかの位置ぐらいにきた。また、並んでいる人々を観察していると、確かに男性の1~2人づれもいるが、中高年の夫婦だとか、家族連れだとか、アニメにはあまり興味がなさそうな人々の方が圧倒的に多い。決して一部の『らき☆すた』ファンだけが騒いでいることではなく、一般客への確かなアピールにもつながっていることが分かる。それは何故というヒントは他にも境内にあった。
 お参りをようやく終え、先ほどの札所へ行き、お護りと絵馬を購入。広い割にまだ込んでいた。絵馬には卒論のことなどを書き掛けにいくと、そこにはたくさんのキャラクターの描かれた絵馬の数々......このキャラクターの描かれた絵馬のことを「痛絵馬(いたえま)」と呼んでいる。絵馬掛け場には、たくさんの痛絵馬が願かけられていた。実はこれらの痛絵馬も、描かれている絵のクオリティの高さもあってか、これを目当てに来る来訪者も多いと見られている。さらには、絵馬同士でやり取りがあるものもあって、一種の交流の場となっていた。確かにこれは面白い。元ネタが分かっているとなおさらだが、そうでなくとも半分感心、半分呆れという様子で見ている人もいる。概ね子供には好評なようで、絵を見て喜ぶ子供も多かった。「観光客」が旅先に残してくる物が新たな観光客を呼んでいるとは、従来の観光では考えられない、不思議な関係である。(後編へ続く)

*1:本田 2005 p.12

*2:岡田・唐沢 2007 p.150

*3:本田 2005 p.147

*4:本田 2005 p.164

*5:本田 2005 p.170

*6:参考: 石原隆行 2006 URL: http://otoboku.s201.xrea.com/moe/index.shtml 閲覧日:2008/11/20 國仙直香 2007 URL: http://web.sfc.keio.ac.jp/̃s05617kn/2007s.pdf 閲覧日: 2009/1/15

*7:大澤真幸によって「オタクは、自身の類似している限りでの他者との交流や連帯を求め、自身との際を際立たせるような他者からは撤退しようとしている」(大澤 2008 p.111)ということが指摘されている。

*8:嵩夜あや 2008b 『処女はお姉さまに恋してるAppendixXI 恋と愛の主題による変奏曲(ヴァリエーション)』より

*9:嵩夜あや 2008a p.5

*10:大平健 2007 p.77

*11:大平 2007 p.77

*12:「寛容と慈悲」がなく、他者のことが思いやれなくなったという傾向は、第二章で書いた「萌え」の作為的な切り方の面にも現れていることを補足しておく。また、第五章でも再度展開させている。

*13:嵩夜 2008a p.250

*14:岡田・唐沢 2007 p.98

*15:なお、コミックマーケットではアニメやマンガの二次創作の他に、評論や他のサブカルチャー分野も取り扱われており、会場全体で萌えコンテンツが扱われているわけではない。

*16:東浩紀のデータベース論や斎藤環の「サイド・ストーリーによる作品共有がなされている」といった部分も参考になる。

*17:2008 コミックマーケット準備会 参考URL: http://www.comiket.co.jp/ 閲覧日:2009/1/20

*18:ところが、最近は「お客様」気分の購入者が増えているという。コミケット側としては危惧しているようだ。

*19:また、コミケットの購買意欲や消費スタイル、経済効果などについてはいっさい触れない。別の論文を当たって欲しい。

*20:アニメやゲームの一次創作のキャラクターやその世界観を使用して、新たに作られたシュミラークル作品を二次創作という。このうち物語形式になっているものを片脇のストーリーという意味においてサイド・ストーリーと言う。

*21:インターネット上での動画共有サーヴィスシステムの一つ、及び運営会社の名前

*22:株式会社ニワンゴが提供しているインターネット上での動画共有サーヴィスシステム。動画上にコメントが書き加えられるというシステムが大きな特徴となっている。

*23:大平 2007 p.62

*24:木尾士目 2002 1巻 p.91

*25:木尾 2003 3巻 p.11

*26:逆に、「見せつけてやる!!」と思う方があっさり返り討ちにあい、その後疎遠に、というエピソードもある。

*27:本田 2005 p.132

*28:クルアーンの中には「アッラーは人間に対して慈悲深い」という章句が数多く出ている。<<だがアッラーは、あなたがたの信仰を決して虚しくなされない。本当にアッラーは人間に対し、限りなく優しく慈悲深い方であられる。>>(雌牛章 143)<<本当にあなたの主は、人間に対し恩恵を施す御方である。>>(蟻章 73) <<アッラーが人間に与えられるどんな慈悲も、阻まれることはない。またかれが阻む何事も、それを解き放すものはない。本当にかれは偉力ならびなく英明であられる。>>(創造者章 2) など多数あるが、その慈悲の方向は等しく人間全体へと向けられている。アラブ人やムスリムといった限定はないのだ。

*29:東 2001 p.44

*30:近未来サイエンス、人間の操縦する巨大ロボット、萌えられるヒロインの登場など。

*31:2005 本田 p.91

*32:2005 本田 p.100

*33:それに対してファンの抗議が殺到し、無期限休載へと追い込まれてしまった

*34:参考: 石原隆行 2006 URL: http://otoboku.s201.xrea.com/moe/index.shtml 閲覧日:2008/11/20

*35:アニメ作品において、諸般の理由により作画のクオリティが常規を逸して低下すること

*36:そんな自制の意味も込めて、私は「百見は一験に如かず」とだとも思っている。これは高校時代の先生の教えでもある

*37:参考として、周防正行の映画作品『それでもボクはやってない』 の中で、主人公が痴漢冤罪を被った際、物的証拠として家宅捜索時に押収したアダルトヴィデオが提出されるシーンがある。

*38:逆にいえば、それができないのなら、神や仏の卑近な可視特性を打ち破れていないことになる

*39:CIAの諜報員は調査報告の上で必要事項としてまず、今の三項目、what, so what, why, を求められるそうだ。確かに、現象を解析する上でまずこの3つがはっきりしていなければ、話にならないだろう

*40:第五章の内容をクルアーンで先取りしておこう。このような章句がある。<<われは地獄のために、ジンと人間の多くを創った。かれらは心を持つがそれで悟らず、目はあるがそれで見ず、また耳はあるがそれで聞かない。かれらは家畜のようである。いやそれよりも迷っている。>>(高壁章 179)あるいは、<<あなたは自分の思惑を、神として(思い込む)者を見たのか。あなたはかれらの守護者になるつもりなのか。//それともかれらの多くは耳を傾け、または悟るとでも思っているのか。かれらは家畜のようなものに過ぎない。いや、それよりも道から迷っている。>>(識別章43・44)などというように、いかに自分自身の思惑が当てにならずわからないものであるかを証明している。特に自分自身にレゾンデートルを求めるのは、なかなか危険なことなのである。では、何が適役なのか。ここでは、ヒントとして章句を述べるだけにしておく。<<天と地の大権は,かれの有である。かれは生を授け,また死を授ける。かれは凡てに就いて全能であられる。かれは最初の方で,また最後の方で,外に現われる方でありまた内在なされる方である。かれは凡ての事物を熟知なされる。>>(鉄章 2・3) 

*41:アニメやゲーム作品の舞台となった土地や建物に訪問すること。cf.ロケ地巡り

*42:萌えアニメの舞台であることを利して、アニメとタイアップした街おこしを行うこと

*43:なお、本稿での『らき☆すた』と鷲宮町との関係については山村論文(2008)を参考としている

*44:ちなみに、鷲宮町の最寄りの陸運支局は春日部。従ってナンバーは春日部ナンバー