そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

9/13のカンブリア宮殿「不況でも売れ続ける驚異のディベロッパー 〜成長する街づくりビジネス〜」を見て

 はじめに断っておきますが、あまり大したネタではありません。なんとなく自分が放送時に感じたことや、そのあと調べたこと、あとは今思ったことなどをまとめただけです。あと、この内容は山万、ユーカリが丘をけっして貶めるようなつもりで書いたわけではなく、ましてや住んでいる方を卑下するものではないということを、ご理解いただいた上で、この下の内容をお読みください。


 昨日の放送は、山万とその社長、嶋田哲夫氏を取り上げるものだった。山万といえば、と聞かれて、普通の人は?という反応をする方が多いかもしれない。あるいは、ジグソーパズルの会社と間違える人もいるかも知れない。*1しかし、コアな鉄道ファンなら大体「ああ、ユーカリが丘線」と、反応することと思う。少なくとも、私はそのように反応した。そして、山万が千葉県佐倉市ユーカリが丘の宅地開発を行っているということは、なんとなく知っていたが、実際のところ、どのようなシステムを取っているのか、ということは全く知らなかった。というわけで「さて、ユーカリが丘線はどれくらいでるのかな」などという興味本位で、視聴していた。


 見せ方としては「最近、多摩ニュータウンとか千里ニュータウンとか寂れていくニュータウンが多い。でも、ユーカリが丘はほぼ同じ時期に造成を始めたのに、若年層にも人気だ。何故?」というスタンスで、山万の開発の経緯や特徴、ユーカリが丘の造成について説明がなされていた。そして「自治体の造成計画ではポシャったことを、山万はユーカリが丘でしっかりとしたまちづくりをしている。すげえ!」という、ユーカリが丘賛美、穿った見方をすれば、自治体、特に多摩ニュータウンの造成計画を批判するような、そういう印象を与えるものになっていた。しかし、こういう見せ方では、多摩ニュータウンの悪評が形成されるのはもちろんだが、ユーカリが丘、つまり山万のいいイメージをつくり上げることは、必ずしもできなかったのではないかというふうに感じる。実際、Twitter上では、山万のすごさを手放しで驚いている人がいる反面、「何か釈然としないものが残った」という印象を抱いた人も多いように見受けられた。


 別に山万の宅地造成に不備があったのを隠している、というふうには思わない。それどころか、放送が終わって釈然としないものが残っていたのを、実際にhttp://www.yukarigaoka.jp/のHPや山万株式会社のHPをみて、いくらか解消したほどである。


 実は、かつて、私は一度ユーカリが丘に足を踏み入れたことがある。鉄道分野の中でもとりわけ新交通システムが好きだった頃があって、NRTに用事があった帰りにユーカリが丘線に乗ってきたことがある。昼前の列車に乗ったが、車内はガラガラ。ユーカリが丘駅→(一周)→地区センターと乗ったのだが、地区センター駅から公道に出るには、階段しかなったのを思い出す。とはいえ、ゆっくりと中央案内式の車両に揺られていると、周りの緑によって目が休まったし、地区センターにある大型スーパーは繁盛していた。


 閑話休題。それでは、何故昨日はあれほど釈然としないものが残ったか、と言われれば、見せ方に問題があったのだろうと私は考える。まず、多摩ニュータウンユーカリが丘の比較からお話が始まっているのだが、そもそも、この2つの事例が比較できるのかどうかから検討してみたい。多摩ニュータウン

開発主体は住宅・都市整備公団(現:都市再生機構)並びに東京都及び東京都住宅供給公社。開発面積は約3,000ヘクタール、計画人口は342,200人で、東西14km・南北1〜3kmに及ぶ新住宅市街地開発事業及び土地区画整理事業である。1965年に都市計画決定し、翌年には事業計画の認可を受けて1971年3月26日、多摩市諏訪・永山地区において第1次入居が開始された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/多摩ニュータウンより引用

 と、なっている。造成を行ったのは、URと都、そして都の公社。3,000haに34万人規模のまちづくりを目指し、71年から入居を開始した、ということになっている。しかし、計画をしたところで、実際どれくらい今人口がいるのかわからないではないか、というご意見。おっしゃるとおり。現在の人口は八王子市HPによると、285,900人。*2これは、多摩ニュータウン全体を合わせた数字である。地区ごとに分けてみると、概ね一万人程度の人口を抱えているようだ。例えば、1971年、最初に宅地造成を開始した多摩市永山地区では15,756人、同じく最初に宅地造成を開始した多摩市諏訪地区では10,092人、同市のニュータウンの中心となる落合地区では13,339人となっている。*3また、比較的新しく造成された稲城市向陽台地区は9,285人、同市若葉台地区は10,395人となっている。*4


 また、その目的としては、また八王子市のHPによると、

 昭和30年代の東京では、深刻な住宅難とそれにともなう住宅需要によって市街地の地価は著しく上昇しました。その結果、住宅建設は、既成市街地から地価の安い周辺地域へと拡大していきました。そして、昭和30年代の終わりごろには、多摩地域でも無秩序な開発が進行していました。

 このような乱開発を防止するとともに、居住環境の良い宅地や住宅を大量に供給することを目的として、昭和40年12月に多摩ニュータウンの計画が決定されました。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/seisaku/machidukuri/newtown/005175.htmlより引用

 ということで、高度経済成長によって起こった都心への一角集中→「深刻な住宅難」→「無秩序な開発」→「乱開発の防止」「居住環境の良い宅地や住宅を大量に供給」する必要性、このロジックで多摩ニュータウンの造成が始められた。ということになる。


 かたや、ユーカリが丘

総開発面積:245ha 総計画戸数:約8,400戸 総計画人口:約30,000人
http://www.yamaman.co.jp/business/management/index.html

世帯数5,694戸 人口15,322人。(2008年8月末現在)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユーカリが丘

 残念ながら、山万のほうでは、現在の人口についてはわからなかった。(まあ、人口をいちいち把握していたら、それはそれで怖いものがあるが)しかし、佐倉市のHP*5には、市域各地区ごとの人口についてまとめられており、ここからユーカリが丘の人口と、人口動態を割り出すことが出来る。ここでは、ユーカリが丘の区域を「佐倉市ユーカリが丘1〜7丁目・南ユーカリが丘・宮ノ台1〜5丁目からなる」地区*6と仮定して、人口を割り出してみよう。すると、15,454人と算出された。というわけで、人口規模から見る限りでは多摩ニュータウン一括との比較、というよりかは、多摩ニュータウンの一住区との比較によって検討ができそうに思える。


 しかし、その造成理念は大きく異なる。

私たちは「真に豊かな街とは?」「いつまでも住み続けられる街とは?」というテーマを追求してまいりました。
昭和40年代に横須賀「湘南ハイランド」で始まった私たちの大規模開発は、昭和46年に着手した「ユーカリが丘」開発に、そのノウハウのすべてが引き継がれました。昭和54年の分譲開始以降、(中略)私たちの街づくりの基本理念は「住民・行政・ディベロッパー」による三位一体の街づくりに置いてまいりました。
私たちが目指すこと | 山万株式会社

 と、造成計画の着手には、多摩ニュータウンと比較して6年の差があるものの、宅地の造成目的は全く異なったものを掲げている。そして、「三位一体の街づくり」という発想は、多摩ニュータウンからは、少なくとも、造成目的の時点からは見られることができない。


 考えて見れば当たり前で、昭和46年といえば、1971年、大阪万博の次の年である。その2年後にはオイルショックも起こり、さぞかし開発の足かせとなったであろうが、実はこの「6年の差」というのは、現代日本史において、相当に大きい意味を持つ。ましてや、分譲開始の昭和54年は時代がバブル期へ向かってひた走る、まさに左団扇の時代だった。つまり、それだけの時代背景の違いが多摩ニュータウンユーカリが丘の造成に影響したということを忘れてはならない。
 もちろん、行政主導か民間機関主導か、という差も大きいし、民間主導でやるから、物事が早く進んだ、時代に対応できた。というポイントもある。そこは、民間の大きな強みであり、それが今なおいい影響を与えている。
 問題は、これらの様々な違いがあるにもかかわらず、比較する、という視点が見られたことだ。確かに、団地の高齢化問題は深刻だし、それによって問題意識をひきつけて、「でも」という転換から興味を持たせるという手法はありかもしれない。しかし、それは現に色々なメディアで報道されているし、わざわざ取材して放送の頭に使う必要はなかったのではないだろうか。だからこそ、一方では懐疑的な目も向けられるようになってしまい、残念な結末を導きだしてしまったのではないだろうかと考える。これが単なる事例の紹介にとどまっていれば、マシだったのでは?と思う。


 ところで、こうやってひとつの街を一つのディベロッパーがつくり上げる、というのは、一民間企業による管理社会の構築という、ある種、別の恐怖を連想させる。それについては、あとで加筆したいところであるが、さてどうなることやら。


 ※かつて、会社で街を作るどころか、島一つを開拓して、その島を実効支配してしまうという事案が、実は日本にありました。沖縄の大東諸島です。その辺りの詳しいことは会社統治領(無人島開拓編)に書かれているのですが、これに似たようなことを感じました。今、ユーカリが丘が外界との何らかの遮絶を行うことも可能と考えると……