そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

風立ちぬ レビュー

 ※ネタバレあり。

 実は私が映画館でジブリ作品を見たのは、なんとこれが初めてである。(もしかしたら、幼少期に見ていたかもしれないが、ものごころついてからは見たことがないだろう。)またジブリ作品自体、実は『もののけ姫』以来見ていない。映画館では無論、テレビでもである。『猫の恩返し』も『借りぐらしのアリエッティ』も、それどころか『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』はおろか、『千と千尋の神隠し』さえもである。別にジブリ作品が嫌いというわけではないのだが、なんとなく見るタイミングを逃し、今に至るわけである。


 ただし、ジブリ作品にいつも諸手を上げて群がる人々を見ていると、どことないズレをいつも感じてしまっている。そんなに万人受けする話か……と。もちろん、私は見てさえいないのだから、全く言える立場にはないのだけれど、芸術作品として万人に受け入れられるものなんて、古典でもない限りそうはないと思うし、ましてや評価や鑑賞の技法がまだまだ確立されていないアニメーションなのだから、果たして毎回毎回そんなにもスマッシュヒットを飛ばせるものか、と思っていた。つまりは、天邪鬼なだけなのだけれど、まあ、そんなわけで10年以上、スタジオジブリの新作とは縁がなかった。



 その前提を踏まえての『風立ちぬ』であるが、表現技法は当時と比べ変化がないが円熟味を増している。それにしても、ジブリは曲線の表現がうまい。冒頭、二郎が乗る飛行機に積まれているエンジンの動き。伯爵がラストフライトに二郎を招待し、人でぎゅう詰めになった飛行機が重さでたわむシーン。そして、関東大震災の地面の震え方。すべて、物理法則に基づいたエネルギーの移動とはいえ、これほどまで曲線の動きで表現するのはジブリならではといえるだろう。この滑らかな曲線の動きはネコバスを髣髴とさせるが、ジブリは色彩をデフォルメする一方、動きを多少大げさなほど曲線の動きで表現することで、躍動感ではない、どことなくコミカルな動きに仕立て上げることに成功している。それが、零戦、空母、機関銃、といった兵器を扱うこの作品で、この点について悲壮感を目立たせない様にした技法だといえよう。
 色彩のデフォルメといえば、どうしてあんなにデフォルメされた食品に「ウマそ感」を感じるのかわからない。草軽ホテルでドイツ人が皿いっぱいに食べるクレソンは、はっきり言って食欲を引き出す色合いではない。なのに「ウマそ感」がすごいのだ。これもクレソンの曲線の動きと食べる人の曲線の動きを大げさ、かつ繊細なまで描き上げた結果であろう。



 さて、表現の話はこれくらいにして、内容に移る。この作品を私はエゴイズムを余すところなく描いた作品であると見る。エゴイズムといえば、とても聞こえが悪いとおもわれる向きも多かろうが、よりポジティヴな表現に置き換えれば、登場人物が素直に生きている作品、といえる。別の言い方をすれば、登場人物ひとりひとりが信念を持ち、自分の行動を信じ、その通り突き進み、そして責任をもっている、といえる。


 これは作中の節々で感じさせる。本城が二郎に対し「俺達は武器商人じゃない。飛行機の設計をしているだけだ」と愚痴る。菜穂子が自分の意志で山中の結核病院を降り、また置き手紙だけを遺し、結核病院へ帰っていく。二郎が菜穂子を娶るシーンでは、病の癒えない菜穂子をそばに置きたい二郎に対して、黒川は「エゴだ」と断じるが、「僕達には時間がないんです」と突っぱねる。それでいて、二郎は零戦の設計でほとんど家には帰ってこない。菜穂子は結核病院に行ってから、作中で父と会ったシーンは描かれていない。そもそも、零戦は軍部の依頼があったとはいえ、スピードを上げるため防御力が貧弱であったし、二郎は零戦の設計に携わり、結果的に日本が焦土と化したことについて、なんら悔やんでいない。そう、言ってしまえば登場人物がまったく自分勝手に、エゴイズムのままに生きている。それが、結果として他人に心配、実害、迷惑、心配りなどかけたとしてもである。エゴイズムむき出しの人々には辟易するといわれるのに、だが彼らは辟易と言った印象とは無縁である。それは、エゴイズムが先に述べた信念そのものだからであり、自らの信念を貫き通すという「エゴイズム」の清々しさである。



 とかくエゴイズムが嫌気される現代にとって、この「エゴイズム」は爽快だ。同時にこの「エゴイズム」は、我々が遠慮を言い訳に使い、忘れてしまっている信念を想起させる。日常系に代表されるような緩やかで衝突のない日常を淡々と描く作品に耽溺してきた現代において、「エゴイズム」が問いかけることは大きく重い。「エゴイズム」を持って生きることは難しい。衝突は避けられないし、責任は双肩に100%かかってくる。人のせいにはできない。しかし、自分という個が生きていくことに対し、生きていくことに価値を生み出そうとするなら――それは大抵の人が目指しているはず――「エゴイズム」を決して捨ててはならない。だから「生きねば」なのである。


 そして、そのような「エゴイズム」をむき出しにしても、なお彼らの絆が綻ぶことはない。それは、登場人物が互いを信頼しているからなのだろう。先ほど、遠慮が言い訳にされてしまっている、と述べたが、遠慮は社会生活上、必要なことである。しかし、遠慮によって踏み込まないままでは、いつまで経っても、信頼が育まれることはない。そして、お互いがお互いを信頼しているがゆえ、このような信念が貫き通せるというわけである。だからこそ、清々しい。



 『風立ちぬ』は「エゴイズム」を描くことで、現代に忘れられた信念と信頼の必要性を問うた快作である。