そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

あとがきを終えてとこれから。

 何のために「萌え」ているのか、ということが常にインプットされていれば大丈夫なような気がする。いや、「萌え」は「萌え」だという返答が大半を占める気がするが、私が敢えて思うのは「その目的は何か?」という点についてである。


 例えば「「萌え」るために、上岡由加里*1を見る」というのは、「萌え」という目的が達成されるための手段の一つである。まあ、ゆかりんでも、柊かがみでも、JCTでもいいのだけれど。しかし、では「萌え」は最終目的なのだろうか?


 実は、私の卒論では「萌え」が最終目的になることの怖さを取り上げたつもりである。地球や、もっと大きなもの、あるいはもう少し矮小化して人々としての繋がりでもいいのだけれど、おそらく最終目的は「みんなみんな 生きているんだ 友だちなんだ」(by手のひらをたいように)*2ということじゃないだろうか、と思っている。ここでいう「みんな」とは、決して隣人だけでなく生物も無生物も、すべての「在るもの」は当てはまる「みんな」である。


 でも、まあ「みみず」や「おけら」や「あめんぼ」とはなかなか友だち同士と思うのは難しいし、だからそれをもっと近くに感じるために、人間同士、恋人同士、そして自己愛がある。とまあ、このように考えると「萌え」も「恋愛」も一手段に過ぎないよね、と言えるのだと思う。


 さて、これからの研究としては独裁者をもっと取り扱っていこうと思うのだけれど、彼らをどういう観点から切っていこうか、という部分についてはまだ曖昧。しかし、独裁者とは何者なのか、ということをうまく切っていけると面白いような気がするのだけれど、まあそれはそれ。

*1:cf.http://d.hatena.ne.jp/kyoto117/20071004#1191469956

*2:無断使用だけどJASRACに告げ口禁止。