そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

まえがき

 初めての方初めまして。知人の方こんにちは。


 本稿の筆者、國仙直香です。実はいまストーリーテラーです、と紹介しようかと思ったら、話の巧い作家になってしまいますのでやめました。私の話はそれほど高尚というわけではありません。むしろ、こんな軽薄な文章で学士を取得してよいのか、と塾員がお叱りになられるかもしれません。


 さて、今から私がお話しすることは「萌え」です。今ならようやくそういっても納得してもらえるのですが、これが少し前なら「もっとまともなテーマを考えてこい」と一喝されたことでしょう。そう思うと、今ここで語るに足るテーマにまで成長させたフロントランナーの方に、かなりの恩恵を頂いているわけですね。


 本論は5章構成になっていて、それがまた5節などに分かれています。正直に言うと、始めと終わりで文章のスピード感覚がまったく違います。最初はゆったりと始まりますが、二章の中盤あたりから疾走を始めます。そこらあたりの文章の息づかいなども感じながら読んでいただけるとおもしろいかなと思います。


 第一章では私と世間のオタクにまつわる話しを述べています。「萌え」とオタクは切れない関係といわれますが、まずはそのあたりから切り込んでいこうと思っています。今でこそ、オタク=危険のレッテルは拭われようとしていますが、今でも根深いという話しと、せめて、本稿を読む人くらいは、実情を知っておいてもらいたいと思って書いています。


 第二章では、「萌え」とは何かについて書いています。いつから使われているのか、誰が使い出したのか、広まり方......,日常茶飯事に「萌え」と使う人も、この辺りは知らないことが多いのではないでしょうか。その上で多くの人の意見や見識から「萌え」について考えて、私の「萌え」とは何かという考察に結びつけています。


 第三章では、「萌え」の有用性と不都合な点について書いています。嗜好品のご多分に漏れず、「萌え」にも有効性と不都合とが見られます。列挙していくとキリが無いので、とりあえず代表的なものや特に強調しておきたいものに絞って、ここで紹介しています。特に知らないことや、気づかないような特性があるかもしれません。


 第四章では、「萌え」を選択せざるを得ない人々についての話をしています。この辺りになると根深い話しとなり、佛教伝来からの日本の宗教史を概略とはいえ踏まえることとなります。明治期の国家神道、戦後の高度経済成長期を経て、人々が自分で自分の存在の理由を見いださなければならなくなりました。その一つに「萌え」が選ばれるまでのいきさつを後半では他との比較から書いています。


 第五章では、今までの「萌え」に対する考察を踏まえて、「萌え」が現代社会のひずみと精神の拙い点を語り出します。「萌え」で語るのは私ですが、「萌え」がそれを証明してくれます。特に自分がいるという証明についての問題、視野が狭くなっているという話、恐れず外へと出て行かなければならないよ、という提案の3点は必読です。他にも神につながるという高度な話しも展開しています。


 この話を読むと、ちょっと「萌え」が分かるようになるかもしません。ちょっと人に優しくなれるのかもしれません。ちょっとホッとするかもしれません。そうなってもらえることを願いつつ......