そこ、行ってました。

でかけた場所を淡々とメモ。

第四章 何故萌えなければならなかったのか

 第三章までで「萌え」のwhat, so what に関してはわりと細かく触れたつもりである。そこで、第四章ではwhy, すなわち何故「萌え」に至ったのかという部分に関して話を進めていきたい。

4.1.悲愴な叫び

私がここまで「萌え」についての言及を行っているのは、2007年7月に掲載したコラムがきっかけだった。少々長くなるが、全文引用する。
>>
さて、『萌える男』の著者、本田透は宗教を真っ向から否定している。神の存在も『萌える男』P168で「神の存在を科学的に証明することは困難だ」と、あくまでも証明がないと信じられないとしている。しかし、その一方で「やはり人間は外部に自我の支えとなる絶対者を求めなければ精神を保つことができないのだ」*1ニーチェの例をあげて絶対者の不可欠性を述べている。そして、宗教否定の代替として萌え活動を「宗教が死に、神に変わる「恋愛」も死んだ現代の日本において必然的に生まれて来た新たな信仰活動だと言えるのだ」*2としているが、著者は、また自分の半生を降りかえってこうも述べている。
 「思春期において、この「恋愛できない」「女性が恐怖と嫌悪の対象でしかない」という発見はかなり絶望的なもので、僕は真面目に自殺を考えたりしたのだった。ここで、宗教や国家のような巨大な共同幻想に救いを見いだすという方法もあったのだが、幸か不幸か僕にはそれが出来なかった。//なぜなら、当時既に時代は80年代に投入しており、まさにバブル経済恋愛資本主義システムの肥大の真っ只中だったのだ。共同幻想に参入できず対幻想を構築することもできない。そのような僕が死なないで自我の崩壊を防ぎつつ生きていくには、自己幻想――つまり「萌え」によって自分の自我を無理矢理にでも安定させるしか方法がなかったわけである。」*3
こう考えると、萌え活動とは宗教を否定し、恋愛資本主義を蔓延させようとするバブル経済とマスの狭間が生み出した、悲劇の産物ではないのかと、作者を不憫にも思うのである。 <<


また、花沢健吾の『ルサンチマン』では、物語の冒頭で主人公が「本日をもって(現実の)女をあきらめましたっ!!」*4や「現実を直視しろ。俺たちにはもう仮想現実しかないんだ」*5といった、現実に絶望する言葉が多数見られる一方で、「生まれてきて、ありがとう......」*6「おれを、一人にしないでくれよっ!!」*7といった、相手との関係性の中で自分のレゾンデートルを見いだそうとする、もしくは相手のレゾンデートルを認めようとする言動も見られる。
 これらの悲愴な叫びを聞いて、どう思われるだろうか。かわいそう、と思う方もいるだろうし、何をそれほど危機感として感じているのかと疑問視する方もいるだろう。しかし、ここで感じてほしいことは、(現実から)必要とされないということがいかにつらいことか、という事実である。考えてみてほしい、ある日友人から、恋人から、家族から、すべてのものから、必要がない、居なくていいと言われたとすれば......
 だからこそ、いつでも自分を必要だとしてくれる存在、自分にレゾンデートルを与えてくれる存在が、人間には必要なのである。「一人では生きていけない」というのはまさにこのことで、何かが自分のことを認めてくれないと、生きてはいけないのである。もし、それが現実で保証されるならまだ良い。ところが、現実には誰もいないならば......


 現実では誰も必要としてくれない、現実には絶望した。しかし、自分のレゾンデートルは必要だ。じゃあ、いったい誰が自分のレゾンデートルを保証してくれるのだろう? そういった疑問とそれに伴う葛藤は、実は日本人の中に常にあったともいえるのである。いったいそれはどういうことか、というのをここからは歴史を踏まえながら見ていきたい。

4.2.歴史的背景

 ここから歴史的な背景を追っていくが、その前提としての「お約束」を述べておく。ここからの調査の目的は、現実では誰も必要としてくれない、現実には絶望した人々が、いかにして自分のレゾンデートルを見いだそうとしたのか、という方法論について明らかにすることである。完全な形で、それはなし得られたのだろうか。それは何か、を見つけることが目的である。そのため、人間との関係の間でレゾンデートルを与えてくれるものはないか、というのはいったん傍らにおいておく。


 ところで、究極のレゾンデートル創成装置とは何だろうか? 例えば、ユダヤ教キリスト教イスラームといった一神教信仰者にとっては、自分の信仰する神であろう。<<そして神は、「我々に似るように、我々のかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。>>*8や<<「本当にわれはあなたがたが知らないことを知っている。」かれはアーダムに凡てのものの名を教え......>>(雌牛章 30-31) などに記されているように、神は人間に地上の代理人としての任務を与えた。もし、この思想を持っていれば、すべての人間は地上の代理人となり、またそのために神によって創られたと考えられる。つまり、すべての人間は神に代理人としての役割を与えられていることになる。したがって、自分は役割を与えられた存在である、とならないだろうか。そして、この役割は消えることはない。ここに永久的なレゾンデートルを見いだすことができるのである。


 同様にして、日本に根付いている思想の中に同様の論理展開を持ったものがあれば、これと同じ方法によって(あるいは、それとの類似性を証明して)半永久的なレゾンデートルが証明できる。そこで、日本の古来からの思想をいろいろと探し当たってみることで、同様の論理展開ができるのかどうかについて踏まえておきたい。
 佛教が我が国に伝わったのが538年で、それ以降神道と並び立つ存在としてその地位を保っていく。両者は導入時点では、豪族の争いにすり替わり、そのせいか互いに反発しあうものとして捕らえられていた。その後、佛教も認められるようになっていくが、徐々に神道との住み分けが行われるようになってきた。すなわち、現世での国や村落といった共同体のまつりごとは神託によって執り行われる一方、死後の魂の救済といった個人に依拠する部分は、佛教によって取り計らわれるようになった。歴代の天皇が多くの寺を建立してきたというのは、神道が佛教の守備範囲に及んでいなかったことをはっきりと表しているといえるだろう。*9*10


 *11さて、などとしているうちに、1052年に末法*12に入った。すると、主に権力者を中心にして、輪廻転生の苦しみから逃れるための仏教が繁栄を見せることになる。彼らは、永遠の魂を得ることに対して努力を惜しまない人々であった。特に武家階級に多く見られ、熊谷直実足利尊氏といった名だたる武士が出家を選び、敬虔な信仰を行っていた。
 これが南北朝時代に入ると、武士の家訓に儒教の徳目が導入されるようになってくる。始めは、神仏への尊崇と並列していたが、後に儒教の徳目を守っていれば、十分だという考え方に移り変わったのである。ここから、人々(=武家階級)の関心が現世に移っていった。さらに、江戸時代に入ると社会が安定し、新田などの開発も進んだ結果、人々の暮らしが豊かになり始めた。すると、現世はつらく苦しいところという認識が、現世は豊かで楽しいところという認識にも変わっていった。何も来世に期待をかけなくても、現世で十分豊かになれると自信を持ち始めたのである。こうして、江戸時代には死後の世界など、来世に関することはとりあえず横においておいて(不安が解消されたわけではない)、まずは現世を楽しもうと言う現世享楽志向が進んでいった。
 仏教の形骸化に拍車をかけたのが寺請制度である。1635年、キリシタンを防ぐ目的で導入されたこの制度は、すべての国民は各自必ず檀那寺*13につき、寺院の宗旨証明を受けねばならないこととした。その後、さらに家ごとに固定した一寺を定め、離檀*14を禁止するようになった。これにより、仏教への熱心さの強弱に関わらず、全国民が仏寺の檀家となったのである。また、檀家制度により寺院が戸籍を管理するようになり、檀家からあれやこれやと雑多な収入をはかるようになった。いわば私腹を肥やすようになっていったのである。


 一方で武家社会では御用学問として、朱子学を始めとした儒学が奨励され、ますます現世指向が強くなっていった。林羅山や藤原惺窩らは僧侶たちの堕落振りに対して痛烈な批判を加えている。儒学が世俗の政治や道徳に強い関心と方策を示していたため、逆に仏教、特に禅宗は現世のことを全く省みない有害な教えであるとした。また、寺請制度による僧侶の「なまぐさ」への耽溺についても厳しく非難している。ところが、儒学は「あの世」のことにはいっさい言及できなかった。現世での価値概念に終始してしまった結果、「あの世」について語ることはタブー視さえされていたのである。そのため、埋葬のみを仏式に行う、いわゆる葬式仏教に関しては否定も批判もしなかった。
 また、神は仏の化身であるなどという本地垂迹説のせいか、長らく表舞台に立てなかった神道だが、江戸中期から国学などを通じてその研究は大いに進んだ。その運動は、儒教や仏教などの漢意(からごころ)に影響される以前の日本人*15の国民性や文化を見いだそうと『記紀』や『萬葉集』を研究するものであった。また、神道の一派である伊勢派が江戸末期に「お伊勢参り」を確立することで、神道は庶民からも徐々にではあるが支持を得るようになっていった。「あの世」のことについても、平田篤胤は『霊能真柱(たまのみはしら)』の中で、「人間精神を確固とする根本は人間の死後霊魂の行方を明らかにすることであり、人間は現世を去っても地上の我々の見えない部分にある霊界に霊魂は残り、霊魂は永遠に生き続け、霊界から現世の様子を見てとれる」*16としている。
 ただ、平田のこの考えは、同じく人間の死後のことについて考えた国学者本居宣長や服部中庸とは全く異なる意見であった。また、一部の国学者を除いては仏教に対して積極的な排斥論を述べられなかったのも事実である。このように、国学も決して一枚岩ではなかった。とはいえ、その後の尊王攘夷運動明治維新の精神を育む上で国学の精神は大いに影響を与えたのである。


 明治期に入り、日本が作られた。というのは、欧州列強に飲み込まれないためにも「近代国家日本」としての日本を形作る必要が生じた。したがって、明治政府は、まず領民を国民に変え、強力な中央集権性を持った国民国家に仕立て上げる必要があった。そのためには、誰か強力な国家元首を決め、その元首の元に国民を従わせる、一種の独裁制が最も手っ取り早い方法であり、またこれまでの支配体制と比べても合っていた。そこで、明治政府が利用したのが天皇である。天皇を中心に据えて、日本国の主権者たる地位を確立させる。新たな元首を選ぶには信憑性を成立させるのが大変であるし、幕府を復活させるわけにもいかない。とはいえ、過去には主権者であった天皇といっても、民衆の多くは天皇に関してあまりにも無関心だった。
 そこで、明治政府は天皇の存在と天皇国家元首たるゆえん、人民の服従などを徹底させることに相当なエネルギーを費やすこととなった。まず、この正当性を証明するために使われたのも記紀であった。*17 そして、「天皇天照大神を祭っている」「祖先も天皇に忠誠を誓っていた」などと言われ、人々は祖先祭祀に力を入れ、天皇に忠誠を誓うようになっていった。それが、徐々に天皇の神格化、天皇崇拝へと変化して いったのである。これにより、日本はイデオロギー的色彩の濃い国家となった。ところが、対外的にはキリスト教の布教解禁に伴い「信教の自由」を認めざるを得なくなる。この時点で、表向きには国家神道は挫折を向かえることになった。
 しかし、ここで政府はウルトラCの対応策を講じる。国家神道が国教化できないのであれば、国家神道を宗教にしなければよいのである。政府のブレーンであった井上毅(こわし)は宗教を「個人の私事」だとし、崇敬行為や布教行為などの外に出る「行為」は宗教ではないと述べた。そのうえで、神道がもともと、国家や村落共同体のまつりごとに影響を与えていたことを踏まえて、国家神道は国家の掟であり、宗教ではないとした。かくして、国家神道に服することと信教の自由は矛盾しない*18こととなり、政府は天皇崇拝をより進めていくことができるようになったのである。


 また、この論理のおかげで辛うじて救われたのが佛教教団である。明治政府の既定路線と佛教教団は明らかに敵対する関係になってしまう。しかし、国家神道に服することと信教の自由は矛盾しないのであれば、内で佛教に帰依し、外では天皇制を肯定することもできる。この聖俗を分けた考え方が「真俗二諦論」である。佛教的真理を守りつつ(真諦)、世間の秩序を守り道徳を遵守する(俗諦)。ちなみに、この考え方は教団が政治的脅威にならない、また時の為政者に狙われないようにするため、江戸時代に編み出されていた。それを加速させたのが明治時代であった。
 とはいえ、この時の佛教教団は命からがら救われたと言ってもいい。これ以前に神仏分離令により、仏教と神道の離合が厳しく求められていたためである。これに乗じて、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊しなどが暴力的に行われ、中には寺院の破壊さえ行われることとなった。また、村々に残る地主神、鎮守神も厳しい立場へ追い込まれることとなった。例えば、神体に仏像の使用が禁止され、破壊されたところも多かった。さらに、国家神道を推進させるため、神社合祀政策によって、全国の神社を天皇崇拝に取り込むかどうかの判断、さらに神社の統廃合が行われた。氏子崇敬者の意にかかわらずである。これにより、今まで檀家制度と氏神信仰として、神仏の融合体勢で曖昧ながら存続していた特殊な信仰構造は、文字通り「曖昧」になってしまったのである。


 このように、神道と仏教は教義も崇敬行為も徹底的に分断され、そのすべてが天皇崇拝に有利にはたらくように動員された。特に神道はもともと「まつりごと」を得意分野としてきた性質もあってか、完全に「神道として人間の」レゾンデートル保証に意味をなさなくなってしまったのである。*19この問題に関しては、また別視点から内村鑑三も『余は如何にして基督信徒となりし乎』の中で記している。「神々が多種多様なことはしばしば甲の神の要求と乙の神の要求との矛盾をもたらした。そして悲愴なのは甲の神をも乙の神をも満足させなければならない時の良心的者の苦境だった」*20「ついには余の小さな霊魂は全ての神々の意を満たすことの全然不可能なことが分かった。」*21と、多神教観の持つ思想観では神と神の間の矛盾が生じているというのである。神と神が互いに齟齬をきたしているのであれば、一体どれが本当のレゾンデートルを保証する神なのか。内村は一神教信仰者の立場として、そういった疑問があったことを告白している。


 さて、そういった歴史背景の中からなんとか深い宗教観を引っ張りだそうとした試みの1つが浄土真宗の一部の僧侶に見られる。真諦と俗諦に分かれてしまった仏教だが、真諦を重視して生きていった人も中にはいる。その一人が清沢満之は「精神主義」という概念を生み出した。彼は「無限・有限」という観点を生み出し、「無限」の極致が阿弥陀仏であり、「絶対無限者」という位置づけを見いだした。そして、これを確実な立脚点とし「眞理の標準や善惡の標準が、人智で定まる筈がない」*22と述べた。逆に「天皇崇拝」行為の善し悪しは「有限」の世界の範囲に留まる。これでは、人生の最終的な立ち位置を保証する上で、どうしても保証しきれず「有限」の人生を生きることができないとした。これは、一神教の考え方とかなり近い考え方であるが、一方で「天皇崇拝」を推進する側から見れば、異端以外の何ものでもなかった。
 清沢は惜しくも39歳に亡くなったが、似たような信仰構造を持っていたのが高木顕明である。特に、彼は阿弥陀仏は人々を平等に救済してくれる声であるとして、当時潜在的に力を伸ばしていた社会主義に共鳴するものを感じ、心霊上から社会制度を根本的に一変することこそ社会主義だ、と述べている。しかし、1911年の大逆事件が結果的に佛教の息の根を止めてしまった。高木顕明はこの事件で処罰され、さらに彼の属する浄土真宗大谷派は彼に対して破門通告を行った。*23 これは、仏教界が政府の方針に屈し、真諦を放棄したという、佛教の終わりを告げる事件であった。あとに残ったのは「真俗二諦論」で、人々が佛教に完全帰依することは不可能だと感じたまま、意識は根付いていったのである。その後、太平洋戦争を経て、国家神道のシステムそのものが崩壊してしまったことは、もはや語るまでもなかろう。


 さて、神も仏もいなくなってしまった戦後日本において、それでもレゾンデートルを見いださなければ生きていけない我々は、次に何にレゾンデートルの保証を見いだしたのか。これについては、次の節に話を譲ろう。

4.3.共同幻想から恋愛幻想へ

 さて、日本の歴史を振り返ってみるのに、ずいぶん時間がかかってしまった。前節では、究極のレゾンデートル創成装置としての神を日本のこれまでの宗教思想に見いだそうとしてみた。しかし、佛教が惜しいところまで行ったくらいで、しかもそれは一般大衆には伝わる話ではなかったのである。そのまま、第二次世界大戦に突入し、日本は敗戦国として、大日本帝國としてのものを何もかも失ったのである。それでは、
そんな終戦を迎えた日本が次にどこへ向かったか、という話から続けよう。


 終戦後、日本人の心の支えとなったのは国家の再建であった。生活が豊かになれば、きっと何もかも豊かになるはず。戦争前の豊かな日本を作っていこう、こういった国を頂点とした共同幻想が、日本人を勤勉にさせた。個人よりも和を尊うという姿勢はいかんなく発揮され、日本国の元に一致団結した彼らは朝鮮戦争東京オリンピックベトナム戦争など対外受注や国家的プロジェクトなどを利用して、脅威の安定成長を遂げた。しかし、'73にオイルショックが発生、GNPがマイナス成長となり、高度経済成長を基盤とする共同幻想はあえなく崩壊したのである。
 終戦から、高度経済成長期の終焉までを端的にまとめると以上のようになる。しかし、ことはそう単純ではない。国家神道の正当性を破壊された日本国民は、なぜすんなり終戦後の高度経済成長期を向かえることができたのか。そして、70年代を曲がり角にしたのはなぜか。という2つの疑問である。今追いかけている疑問――何にレゾンデートルを見いだしたのか――とはまた別の疑問であるが、寄り道をして追っておくことで、今後の展開がよりクリアに、より深く展開されると考えるのでこの2点についてまとめておきたい。


 *24戦後すぐの日本を決定づけた一枚の写真がある。1945年9月27日に撮影されたGHQ総帥ダグラス・マッカーサー昭和天皇裕仁の2ショット写真である。この写真を通じて、国民は敗戦の重みを知ったと同時に、GHQによる統治が天皇に成り代わって行われることを示されることとなった。ところが、戦後の日本はそれをすんなり受け入れてしまうのである。議会制民主主義政治の本格的なスタートは1952年の主権回復まで待たねばならず、ある種の独裁制、つまり最高主権者が独裁的地位を保てるという意味においては、統治者が「天皇GHQ」に変わっただけで、構造自体は何も変わっていなかったのである。*25
 GHQの元で、新しい国家を作り上げ、朝鮮戦争による特需で経済成長も上向きとなった1952年、満を持して日本の主権回復が完成する。十分に溜めたパワーでスタートダッシュを決めた日本は、さらに特需の追い風を受けて右肩上がりの成長を続けていく、いわゆる高度経済成長期に突入した。それにともない、身の回りも目に見えて豊かになっていったという理想の時代を歩むこととなった。60年の安保闘争で一度理想の時代は崩れかけるが、60年代には再びオリンピック特需やそれに伴うインフラの整備が続き、ついには68年のGNPが資本主義国家の中で第2位となる。そして、70年には大阪万博も開催され、ここに理想の時代は頂点を極めたのである。ところが、この時すでに理想の時代は終焉を迎えつつあった。
 理由の一つとしてベトナム戦争でのアメリカの苦戦が上げられる。もともと、日本の独立以降の歩みはアメリカを一種理想化している面があった。それはGHQ占領政策の影響が色濃いという理由も挙げられるし、明仁皇太子(現:今上天皇明仁)は正田美智子(皇后美智子様)と「御成婚」され、戦後の新しい家庭像をメディアを通して配信した。これが戦後の理想的な家庭像とされたのだが、美智子妃殿下がエプロンをつけ、キッチンで料理をする様は、まさしくアメリカの市民生活そのものであった。さらに、アメリカ式の「消費するライフスタイル」が確立されていく時代でもあった。まさに、アメリカを理想とし、それに憧れ追従していたのが「理想の時代」なのだが、ベトナム戦争アメリカの苦戦ぶりに「理想の時代」の雲行きが怪しくなっていく。
 また、1968年には全学共闘会議、いわゆる全共闘が勃発した。大学紛争が革命闘争に変化していったこの運動は、戦後最大の学生運動と呼ばれる反面、国民からの視線は厳しいもの*26だった。というのも当時の大学進学率は15%程度で、大学に進学していること自体が既にエリートと見なされる時代であった。そのような彼らが革命闘争を引き起こしたのは、あまりに妙だったのである。*27しかし、彼らはこれから訪れる時代の変革、すなわち「理想の時代」の崩壊を既に感じ取っていたとは考えられないだろうか。
 そして、1973年の「第一次オイルショック」により、翌74年のGNP成長はマイナス成長を記録。ここに、「理想の時代」はあえなく終焉を迎えた。


 理想の時代の崩壊は、共同幻想の崩壊ともいえるし、ポストモダンへの突入を如実に表したものとも言える。ちなみに、この時代にオタク第一世代が誕生し、コミケットは1975年にスタートした。時代は虚構の時代としてすこしずつ変化していくところであった。しかし、ポストモダンに突入し、個々人には大変重い負担が求められるようになった。それが個々人が個々人で個々人のレゾンデートルを確保しなければならなくなったという点である。戦前は天皇が臣民としてのレゾンデートルを、理想の世界の時代はアメリカを理想として追いかけるところに日本人としてのレゾンデートルを見いだすことができた。*28ところがポストモダンに突入し「大きな物語の凋落」が起こったのである。
 ここで「大きな物語の凋落」について改めて触れておく。20世紀半ばまでの近代国家では、様々な社会システムが整備され、その働きによって社会が運営されてきた。そのシステムは国民の思想、政治、経済、などあらゆる面で統率をしていた。「大きな物語」というのは、このシステムの総称のことである。そして、それが権威を失い、崩壊したというのが「大きな物語の凋落」である。*29
 さて、個々人が各自でレゾンデートルを見いださねばならなくなった、という部分についてである。これを「自由」と、いわゆる新人類を中心に称する向きもあったが、すぐにこの状況が実は前にも増して人々から自由を奪うことに、じきに気づくのである。人はレゾンデートル保証装置がなければ生きていけないという前提*30でこの話は展開しているが、個々人にレゾンデートルの保証が求められ、つまり個々人が個々人で自分の生きる意味を見いださねばならなくなる。今までは、大日本帝國や「大きな物語」の中で共同幻想と、それによって規定されるレゾンデートルによって生きてきた我々は、ポストモダン以降、さらに自身に厳しい負担を課していくことになるのである。


 さて、時間を進めよう。「大きな物語の凋落」により共同意識に見限りを付けた人々は、「大きな物語」を信じられなくなり、パーソナルな部分にレゾンデートルの保証装置を見いだそうとしていく。それが対人関係の構築によるものである。ところが、家督制度は核家族という概念が広く浸透していたため、既にその価値を失ってしまっていた。そこで取り入れられたのが一対のカップルを考えた時、お互いがお互いに「いてもらわなくては困る」という存在意義を見いだすこと、つまり恋愛関係である。すなわち、お互いが相手に神を見いだし、その神が自分にレゾンデートルを与えてくれるというのが、恋愛関係のもつ本質的な意味である。これを共同幻想の対表現として「恋愛幻想」と呼んでおくことにする。*31


 これを踏まえておきたかったのは、80年代後半から時代がバブル期に進むに従って、恋愛関係が商品化され、消費スタイルの中に組み込まれてしまったこととの比較をこれから行うためである。この恋愛を消費するスタイルのことを本田透は「恋愛資本主義」と呼んだが、あまりにいいネーミングなので、私も拝借することとしよう。*3280年代後半、空前の好景気にわいた日本では、働き続ける女性がメジャー化していき、女性の経済的・精神的自立が叫ばれるようになった。女性も、男性と同じぐらい給金をとり、その上で、自分の趣味嗜好のために消費活動をするようになってきたのである。ここに目を付けたのが市場であり、消費活動を行う女性が新たな消費層として資本主義に取り込まれていった。彼女たちは男性ほど貯蓄をする必要にかられず、また無理をして労働する必要もなかったため、「金もあるし、時間もある」という優良消費者として迎え入れられた。
 彼女らをターゲットとした商法は、恋愛の形もまた変化させることとなった。わかりやすい例が「トレンディドラマ」と呼ばれる、ホワイトカラーの恋愛やトレンドを描いた現代ドラマがスタートしたことである。それまで、一対のカップルの純愛を描いたものが主流だったのが、複数の男女が出演することで「誰と誰がくっつくか」というカップリングの妙を楽しむドラマが主流になった。これは、恋愛関係の受け取り方、極端に言えば目的が、カップルが相互のレゾンデートル保証をしあうというものから、駆け引きや組み合わせを楽しむものへと変化していったことを如実に投影したものだと言っていいだろう。この傾向が、市場経済と結びつき、駆け引きの中では自分がより魅力のある「商品」としての価値を持つことが重要となった。などと言うと少々大げさだが、例えば、女性が男性に求めた「高学歴」「高収入」「高身長」という"3高"や逆に男性が求めた「賢さ」「器量の良さ」「おっぱいの大きさ」など体のパーツごとの評価によって男女の評価、ひいては商品価値の相対評価に繋がっていったのである。


 持ち物もまた同様にして、評価対象に組み込まれた。*33ブランドの有無は当たり前で、T・P・Oを過度に意識したコーディネイトも要求された。ついには、自分の持ち物を過度に意識するあまり、自分のアイデンティティ評価を持ち物でアピールすることを第一に考える人々も現れた。持ち物こそが、自分の個性を最も表してくれるという考え方である。彼らの頭の中には持ち物のデータベースが配備され、つねにいいものを狙っているという。本来なら「恋愛資本主義」を地で行った人々と言うべきであろうが、彼らは持ち物を利用して自分の評価を上げるつもりが、持ち物自体を集めることに終始した結果、手段が目的化する状態に陥っていた。しかし、技術が向上し、新製品が出続ける以上、彼らの満足感は終わることを知らない。いいものは常に更新されるからである。
 余談だが、「スイーツ(笑)」と呼ばれる女性が生まれた背景には、おそらくこの時代が深くかかわっている。「スイーツ(笑)」とは、2006年から主にネット上で広まっていった言葉の一つで、マスメディアやマーケティング戦略に踊らされ、彼らによって「流行に敏感」であるように仕立て上げられた女性のことを指す。*3480年代後半を例にして言えば、*35まず、マスメディアや広告代理店がこぞって「スキー場でのデートがトレンディである。」と宣伝する。トレンディドラマで扱ったり、ファッション誌でウェアーの特集を組んだり、など十分なお膳立てをしておく。すると、自分たちが「トレンディなカップル」ということを確認*36するために、マスメディアやトレンディドラマに法った形でスキー場デートを行うのである。これは、現在の「朝、バナナを食べると健康にいいらしい」というマスメディアの情報を受けた女性が、こぞって朝はバナナを食べることで、自分の健康を確認しようとするのと何ら変わりがないのである。*37


 閑話休題。「恋愛資本主義」の時代になり、男女も「商品」恋愛活動も「商品」として扱われるようになった、という話であった。ともかく、恋愛の商品化によって、恋愛関係によるレゾンデートル保証はかなり難しいものとなってしまった。残ったのは、商品化された人々であったが、人気のある「商品」はまだしも、売れ残りは売れ残ったままになっていた。つまり、恋愛資本主義は勝者と敗者を生んでしまい、勝者はまだしも、敗者には恋愛ができない。さらに、上には上がある/いるという状況が大半のものを敗者化させた結果、ほとんどの日本人に、今までよりもっと厳しい現実が突きつけられたのである。


 以上が、共同幻想から恋愛幻想へのパラダイムシフトとその末路である。その後『世界の中心で愛を叫ぶ』『今、会いにゆきます』といった純愛を描いた作品や『冬のソナタ』『春のワルツ』といった、まだ恋愛資本主義に染まっていない韓流ドラマへの憧憬が見られたが、結局はブームという形で恋愛資本主義に取り込まれていった。
 おそらく、恋愛の本質は今でも互いのレゾンデートル保証という部分にあると思うし、結局一対のカップルにならざるを得ないという結婚制度がギリギリその本質を保持していると言えるだろう。しかし、これも婚前妊娠、いわゆる「できちゃった婚」の拡散とともに「生まれてくる子供のため」という目的が表面化してくる上で、互いのレゾンデートル保証がいよいよ蔑ろにされる傾向にあるのもまた事実である。

4.4.残された道

 このように、恋愛幻想も今や恋愛資本主義によってほとんど崩されたという結末が残った。さて、残った道は何か。おそらくここまで辛抱強く読んで来られた方なら、すぐにその答えは言い当てられるだろうが、それはこの章の結節に持ってくるとして、もう少し回り道をしてみよう。他の道はないものかと模索をした人も少なからず存在する。


 一つ目は宗教への復帰である。それも、新宗教と呼ばれる、歴史の浅い宗教への帰依である。過去の日本の宗教が時代の流れの中で結果的に醜態を演じてしまったという話は4.2.で詳しく述べた。これを受けて、宗教についてまじめに考えようとする一部の宗教家や若者は、過去の宗教との決別、あるいは教団との決別を表明し、宗教の理想的な面だけをすくい取って生かそうとする新団体を結成した。これが新宗教の発端である。事実、多くの新宗教は明治から大正にかけて生まれている。なんとか深い宗教観を引っ張りだそうとした試みのもう一つ*38が、この新宗教の立ち上げだったのである。
 これを踏まえると、確かに新宗教は「大きな物語」が凋落して、人々が求めた次のレゾンデートル保証装置の一つとなりえた。ところがそうはならなかった。もし、新宗教が明治期と同じ成立の仕方をしていけば、レゾンデートル保証装置の一つとなりえたかもしれない。しかし、70年代の運動が明治時代の運動と異なっていた点は、明治期の場合、国家神道や佛教教団の歪みに気づいた人々が能動的に、新たな考え方と宗教体系を模索して作り上げていったというのに対して、70年代の運動は行き場を失った人々が受動的に、新たな考え方と宗教体系を持とうとしたという違いがある。その意味では、彼らは星の方向に進んでいく律法学者ではなく、まさしく迷える子羊だった。実はその兆候は1970年以前に起こっていて、例えば、新宗教の代表格とも言える創価学会は60年代後半に立て続けにスキャンダルに見舞われていた。そのため、70年代以降はその成長が鈍化している。その間隙を縫ってさらに新しい宗教が生み出されているが、これらは明治期のものと区別するために新々宗教と呼ばれている。
 新宗教に見られず新々宗教に見られる特徴として、疑似科学・超能力などのオカルト指向があげられる。超能力を間近で見せることで、超越的な力を信じさせ、それに帰依するように求める。また、不幸を唆し、それを解消する手段として、超越的なパワーを持つ物品を購入させる。この手の手口は70年代後半から80年代にかけて勢力を伸ばした。確かに「迷える子羊」となったレゾンデートルを忘れてしまった人々にとって、それらは超越的な装置であった。冷静に考えると仕掛けや罠が張り巡らされていると言えるのだが、冷静さを欠いた人々にとって、それを見いだすのは難しかった。
 そして、行き着く先まで行ってしまったのが、95年3月20日地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教である。1987年に設立されたオウム真理教は、坂本弁護士殺人事件や松本サリン事件など数々の事件を引き起こしていた。これらテロリスト活動を行う教団がメジャーとなっていく中で、一般大衆には「宗教=テロ」という等式が根付いていった。また、今一つの例は霊感商法で社会的問題を引き起こした統一教会である。霊感商法合同結婚式など奇妙なモノやイベントを通して伝えられるその姿は、一般大衆に「宗教=気持ち悪いもの」という印象を残した。両者を結ぶ上でキーワードとなるのが「マインドコントロール」すなわち洗脳である。洗脳されていたという会見やマインドコントロールを解く、といった話題がメディア上で伝えられ、一般大衆には「宗教=洗脳」という印象も残したのである。
 こうなっては宗教に救いなど、とても求められないと考える人々が圧倒的になる。宗教への帰依は危険と判断され、人々から嫌悪される存在となっていった。


 あまりにも宗教教団は信じられない。しかし、何かには帰依したい。そんな人々の中に一人一人が個々に帰依すればよいと考えるようになった人もいる。実はそのはしりにいるのが、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェである。かの有名な『悦ばしき智慧』の中で「神は死んだ」と述べた彼は「超人」や「永劫回帰」の概念を生み出した。時間が無限である以上、この世はすべて相対化される。我々もそうなる。だから、何かにすがることは無意味で、自身を律して「超人」にならねばならないと主張した。ところが、彼はあまりに「超人」を求めた結果、狂人になってそのまま死んでしまうのである。とはいえ、その後の哲学者が受けた影響は計り知れない。
 また、そのエッセンスは宗教観にも利用された。たとえば、比較宗教学者の町田宗鳳は「無神教」という概念を生み出している。彼は、ニーチェの言葉を「神の出番がなくなった」*39と言い換え、人間の活動や精神を制限する教義を取り除くべきと主張している。それを「自分の生き方は自分で判断するのが、人間の尊厳ではなかったのか」*40と人間の自由な活動範囲を認める主張をしている。そこで、人々は個人の「霊的認識」を高め、魂で直接神を感じるようにならねばならない。これは決して簡単なことではないが、そういったパラダイムシフトが必然的に起こっていく、と述べている。しかし、これではニーチェの言う「超人」思想とほとんど変わることはない。神を感じようとするかどうかの違いである。町田の手法では一人一人が「霊的認識」を高めなければならない、ということになるが、それができればわけはない。
 私は先ほどからレゾンデートル保証装置は何かということをずっと述べてきているが、厳密に言えば、それだけでは不十分である。装置と自分があったとしても、その間をつなぐものがなければ、正しく伝わって来ない。つまり、我々の目的は装置そのものの他に、装置と自分をつなぐ正しいガイドラインを探すことなのである。残念ながら、これでは後者が抜け落ちてしまっている。わかりやすく言えば、大阪から東京に行きたい時、駅員に「東京はどこですか?」と聞いて、その返答が「東京はここじゃないですね。」と言われるようなものである。*41こういった多様性を認める考え方は、確かに宗派や教団が害悪という主張の一部とはなるのだが、一方で解決策としては明確な具体案が示されないため不十分である。とはいえ、ガイドラインが悪影響を与えている、という主張は十分に理解できる。


 先ほど、哲学が受けた影響......と話をしたので、哲学を考えるというのも一向だ。例えば、脚本家であり哲学者の林秀彦は「だが、神を失っている、あるいは原初から神を持たない我々は、誰からこれら(=平等な尊厳/理性と良心)を授けられるのだろうか。神がなくとも、せめて哲学だけでも誰かから授けられないものだろうか」*42と述べている。神は日本人が考えるに難しい。せめて哲学なら、という主張である。これは先ほどとは逆に正しいガイドラインだけでも、せめて与えられないだろうか、という考え方ではないだろうか。元々レゾンデートルという考え方を持たないのだから、それを今さら考えても難しい。ならば、尊厳とか、理性といったガイドライン部分を守ることはできるだろう、というものであるが、よく考えてみると、これは南北朝~江戸時代から創始した儒教の主張とあまり変わりがない。
 つまり、日本人は現世指向が強く、死を見通した来世指向は根付かなかったという部分を踏まえての意見だろう。しかしガイドラインだけでは、やはり残念ながら難しく、どこへ向かうかわからないという問題点を抱えている。先ほどの「駅員と客@大阪」の例を使うと、客が「東京はどこですか?」と聞いて、駅員が「新幹線に乗って東へ行って下さい」と答えるようなものである。こういったガイドラインを示す考え方は、確かに道徳や倫理の大切さを知ることはできるのだが、一方で「どうして自殺しちゃいけないの?」などという倫理を試す質問には明確な回答を示すことができないのである。とはいえ、経験論からガイドラインの正しさを帰納的に認識できるのは事実である。


 実は、このような哲学や無神教論といった学問と「萌え」が突き詰めて考えようとしている部分は、本質的には同じなのである。なぜならば「萌え」もまた残された道の一つだからである。次節ではこの章のまとめとともに「萌え」が必要なのはなぜかという回答を示そうと思う。

4.5.「萌え」という苦しみ

 さて、第四章も大詰めである。というわけで、まずはここまでのおさらいから。
 何故「萌え」なければならなかったのか、に答えるのが本章の目的であった。これをいったん横へおいて、レゾンデートルの保証装置を歴史の中から探り出そうとした。しかし、惜しいところまでは迫るのだけれど、日本の強い現世指向や明治政府の力もあって挫折。終戦後、共同幻想は高度経済成長期の終焉とともに凋落し、ポストモダンの時代へ。恋愛幻想が生み出されたが、市場と結びつき挫折。このとき、裏ルートで新宗教が勢力を持っていたが、後に「宗教=洗脳」となって大衆は憎悪。哲学や無神教は装置そのものや、つなぐガイドラインが不十分。と、一神教のような論理展開ではレゾンデートルは証明できないのである。ただし、いくつかを組み合わせれば、保証装置となりうるか、あとは個人の努力次第......というのが日本の現状である。


 さて、ここまで「萌え」の話をそっちのけで話題を進めていたわけだが、ここでいよいよ「萌え」が登場する。共同幻想、対人関係を基調とする恋愛幻想にもレゾンデートルの保証装置を見いだせなくなった人々は、いよいよ自分に頼ろうとする自己幻想に活路を見出すしかなかった。その自己幻想の代表格こそが「萌え」である。*43さっそく、「萌え」を先ほど規定したレゾンデートルの保証装置として当てはめてみると、このようになる。「保証装置=データベース」「ガイドライン=シュミラークル」と、哲学や無神教論と違って何かが決定的に足りないことはない。ところが「萌え」はある意味「ポンコツ機械」というか、欠陥付きの商品なのである。
 まず、「ガイドライン=シュミラークル」についてだが、 3.1.2.や3.1.3.より確かに有用性はあるが、一方で 3.2.2.や3.2.3.より不具合も多い。したがって、ガイドラインとして認められなくもないが、少し危険な感じがする。一方の「保証装置=データベース」は 3.2.4. にも書いた通り常に動いているわけではなく、自分がアクセスして初めて動くものである。このように、ガイドラインも装置そのものもどこか不具合を抱えている「ポンコツ」なのである。
 ここで強調しておきたいのは「ポンコツ」ということではない。むしろ、哲学や無神教のようにレゾンデートルの保証装置を考えようとする試みの中に「萌え」もはっきりとその名を刻んでいるという事実である。言い方を変えれば、「萌え」も哲学や無神教などと同じフィールドで扱われるべき話であり、「萌え」も哲学や無神教などと同様、そういった苦労の末の産物なのである。
 もう一度、第四章冒頭の本田透の悲愴な叫びを引用しておこう。

「思春期において、この「恋愛できない」「女性が恐怖と嫌悪の対象でしかない」という発見はかなり絶望的なもので、僕は真面目に自殺を考えたりしたのだった。ここで、宗教や国家のような巨大な共同幻想に救いを見いだすという方法もあったのだが、幸か不幸か僕にはそれが出来なかった。//なぜなら、当時既に時代は80年代に投入しており、まさにバブル経済恋愛資本主義システムの肥大の真っ只中だったのだ。共同幻想に参入できず対幻想を構築することもできない。そのような僕が死なないで自我の崩壊を防ぎつつ生きていくには、自己幻想――つまり「萌え」によって自分の自我を無理矢理にでも安定させるしか方法がなかったわけである」*44

 本田は、恋愛幻想にも共同幻想にも参入することができなかった。しかし、自我を安定させる必要があった。そこで「萌え」という苦労を強いられたのである。何故苦労を強いられたのか、それは「萌え」という装置が自己幻想を必要としたポンコツだったということに由来する。自己幻想がどうして苦労なのか、ということだが、まず、自分自身から装置に対してアクセスしなければ、装置の返答は返ってこない。共同幻想や恋愛幻想では、こちらからのアクセスの有無にかかわらずアクセスが送られてくる。例えば、大日本帝國なら臣民としてのレゾンデートルは、自分が天皇を敬う敬わないにかかわらず保証されていたし、恋愛幻想ならば、自分のアクセスの他に、相手からのアクセスという形でレゾンデートルが送られてくる可能性がある。ところが、自己幻想では装置に対して何らかの方法――アニメを見る、ゲームをプレイする、小説を読む、妄想する......――でアクセスを行わない限り、決してデータベースからの返答はない。


 また、ガイドラインを伝わる途中、情報は不変かという点も不明である。共同幻想なら、幻想との距離が問題になるときもあるが、気を付けていれば大丈夫だし、恋愛幻想にはその心配は基本的にはない。例えば、イスラームならクルアーンという存在は不変であるし、恋愛幻想なら直接的な関係が多いため、情報は直に伝わってくるだろう。ところが、自己幻想では、途中でシュミラークルが崩壊する、リビドーが必要以上に刺激されるなどというリスクが常につきまとっている。この「萌え」を利用した自己幻想によるレゾンデートルの保証は、なかなかの苦労を伴っていることがお分かりだろうか。決して、楽をしているわけではない。むしろ、かなり困難な道を歩まざるを得ないということである。
 困難な道を歩まなければならない、というのは哲学や無神教論と変わらない。逆に、哲学や無神教も個人の部分にかなり委ねられている点から、哲学や無神教論もまた自己幻想の一種だといえる。要は、レゾンデートルの保証システムの中で、何らかの部分が不十分というのは変わっていない。不十分を何とかして埋めようとしている努力が発生する点も同じである。ただ、その努力は人間であり自己幻想を選択した以上、絶対に必要なのだ。
 その努力とは、自分から装置に対してアクセスしようとする自発的行為だが、これは逆に自分自身が神になってしまうという側面も持っている。というのも、アクセスを自ら行うということは、その回答もまた自分の意思が反映されることに繋がるからである。つまり、レゾンデートル保証に自らの意思を挟み込むことができるのだ。これは、無神教論には神を認めているという点より、無い側面である。哲学は突き詰めて考えるとニーチェのように自分が直接的に神のような立場に立たなければならない、という考え方も生まれるが、「萌え」はそれとは違ってシュミラークルとデータベースを媒介変数として挟み込む部分が間接的である。
 「萌え」なければならない理由は、最終的にはこうだ。共同幻想が崩壊、恋愛幻想を中心とした対人幻想が崩壊、自身でレゾンデートル保証をしなければならないが、直接的に保証するのは無理だった。そのような中で、残る道は間接的に自己幻想を行う活動、つまり「萌え」しか残されていなかった。ということなのである。


 ここまで、本当に長く滔々と語ってきた。私自身に「萌え」をめぐるゲシュタルト崩壊181 が起こり、それを問題提起し再構築してきた、という過程がここまであった。「萌え」についての<>もちゃんと結論が出た。では、最終章にはいったい何を書こうか。それが、これからお話しする「「萌え」が語りだす現代社会の歪み」である。「萌え」の持つ性質は、実は現代社会が持っている歪みを相対化して見るのに最適なのである。「萌え」は現代社会の縮図だと言ってもいい。それはいったいどういうことなのか、というのが次章で明らかになる。ただ、ここで問題提起を皆さんにしておこう。種明かしは第五章で行われることであるが、その前にちょっと考えてもらいたいことがある。

  1. レゾンデートルとアイデンティティは双方とも自分の存在を扱った用語だが、その違いはあるのだろうか。
  2. 「「内在的他者と超越的他者」とのカオスが起こりうる」と3.2.1.では触れたが、両者の境界線はどうやって区切られるのだろうか。
  3. レゾンデートルの保証による期待される成果とは何だろうか。目的は「自分が必要とされていることを忘れない」こと、手段は今まで第四章の内容と「萌え」であるとしたが、期待される成果についてはまだ語っていない。

 ......お分かりだろうか。実はこれらの問題は現代社会の歪みと深い関係があるのである。それでは、いよいよ第五章へ行ってみよう。

コラム3......『らき☆すた』の街、埼玉県鷲宮町に行ってきた。(後編)

 さて、次に隣接する大酉茶屋に行ってみることにした。3時を既に回っており、お昼のメニューは終了していた。上がる前におしるこを頼み、古民家の縁側よりに座る。床の間には所狭しと『らき☆すた』グッズやら美水かがみさんや加藤英美里さん*45ら出演者のサインが並べられている。店内には観光客が7~8人ほどいて、いずれも『らき☆すた』ファンであるようだった。熱心に床の間のグッズを撮ったり、備え付けのゲストブックを見ている。
 程なくしておしるこがやってきた。やや小降りのお鉢に餅が二つと栗が一かけ。塩こぶがついて500円なり。早速すすってみると、なかなかうまい。特にあずきの甘みと風味が存分に出ている。もともと一般客向けだったとはいえ、こういった観光地、しかもタイアップがあるとなると、クオリティが落ちることもままある。しかし、ここはクオリティの高さを保っていて、気さくな雰囲気も良い。こびないクオリティの高さが、こういった商売の繁盛につながるのだろうと思った。
 一方で気になったのは、『らき☆すた』にこびすぎなのではないかといった疑問である。大酉茶屋など、ほとんどの面が『らき☆すた』で飾り付けられ、アニメファンにはたまらない演出である一方で、一般客はこれを見ればさすがに引いてしまうのではないだろうか......などと思うぐらいの飾り付けであった。


 温まったところで、少し参道を歩いてみる。商店街はひっそりとして人影はほとんどない。また、すべての商店街の店舗が『らき☆すた』と絡めた何かを取り扱っているわけでもなく、大体半分ぐらいに留まっていた。実はこの日は日曜日で、しかも鷲宮町の市街地とは若干離れたところに鷲宮神社があるため、今日の神社周辺では街の様子は、はっきり見えなかった。しかしこの時、私は『らき☆すた』の経済効果は本当かと疑った。オタクは別にその街自体に興味があるわけではない、ましてや地元に金を落とすことはない、一部の好事家が騒いでいるだけだ、期待したほどでもなかったな、などと。そもそも、住民は今回のアニメ騒動とあまり関係がない。地域のマスコットキャラクターがアニメのキャラクターになったところで、影響を与えることは少ないだろうと。
 帰りに、行きに見かけたそば屋「まる賀」に入ることにした。店内には先客が2組。私は餅入りのうどん「かがみの鏡餅うどん」*46を頼み、店内のテレビでその日やっていたスキージャンプのUHB杯を見ていた。なお、ここの店にもいくつかのグッズが並べられていた。待つことしばし、焼いた餅が2つにほうれん草、かまぼこ、天かすが添えられた実に普通の力うどんが出てきた。味もそこそこで、うまいともいえないがまずくはない。
 ところで、日曜の17時だというのに、客足が途絶えない。鷲宮駅鷲宮神社の間にめぼしい飲食店はここぐらいしかないので、客足があっても不思議ではないのだが、しかし2人で切り盛りする店主が暇になることはないくらいの客の入りだった。食べ終わって支払うときに、店主とは少し話ができた。『らき☆すた』がきてから景気は変わったかを尋ねると、「やっぱり変わった。『らき☆すた』のおかげは大きい。以前に比べて賑わうようになったし、関西など色々な地方から人がきてくれるようになった。今日も多くの人が来てくれたし、昨日も多かったよ。」と話をしてくれた。良かった、と思うのと同時に改めて『らき☆すた』を利用した鷲宮町の街おこしが順調であることを感じた。そんな想いとともに、二時間半かけてのんびり帰っていった。つかの間の楽しい休日だった。


 日曜の午後という、人の少ない時間帯、商店街の活気の少ない日取りに行かざるを得なかったのだが、少なくとも鷲宮神社の活気と、商店と商工会の取り組みが今のところ順調であることが大いに感じられた。地域とファンとの交流も活発化していることから、鷲宮が旅の目的地として、はっきり示されるようにまでなったのは間違いない。一方で、冒頭で触れた山村も指摘しているが「商工業に関係しない一般の市民がどこまでファンを理解することができるかがもうひとつの大きな課題として残る。」*47のも事実だろう。『らき☆すた』で固めた商店や飲食店を果たして許容できるか、施策の一つであると受け入れられるかが一つの鍵になるだろう。アニメ画には未だネガティヴなイメージがついているが、お隣の春日部市は同じくマンガ作品の『クレヨンしんちゃん』を押しているし、同じく『らき☆すた』の舞台となった幸手市と組んで、徐々にその部分も解決していくことになってもらいたい。
 少なくとも2007年秋あたりから、この取り組みが続けられてきたが、未だに衰えを知らないというのは、作品そのもののクオリティももちろんだが、それ以上に商工会の努力とファンへの対応の誠実さ、それから行政の後押し、ファン自身のモラルの高さなど、多くの良い関係が築かれた結果ではないだろうかと思っている。山村はこれを「Win-Winの関係」*48と称したが、まさにお互いがプラスになる関係を考え続けた人々の行き着く先は、このような成功例だった。山村はこれを経済的な面での「Win-Winの関係」を特に強調して述べているが、私は良い関係を築き、さらに協力し良いものにしていこうとした、精神的な面での「Win-Winの関係」があったことも間違いないだろうと思っている。


 ......などと思いつつうとうとしていると、電車はまだ渋谷だった。それから一時間ほどまだ電車にごとごと揺られ続けていたのである。......遠い

*1:本田 2005 p.57

*2:本田 2005 p.87

*3:本田 2005 p.205

*4:花沢健吾 2004 1巻 p.30

*5:花沢 2004 1巻 p.94

*6:花沢 2004 1巻 p.48

*7:花沢 2004 1巻 p.119

*8:旧約聖書 創世記 26

*9:また『源氏物語』のなかでも、斎宮が伊勢に行くと、その間仏の加護が得られず病気になっても助けられない、といった下りがある。

*10:ちなみに、この頃の神道に関していえば、正当性を示すと言われる"記紀"は天皇家の正当性を熊襲蝦夷に示すプロパガンタとしての役目を果たしたと言う説もあり、評価が定まっていない。

*11:ここから以降、この節の末まで阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』の論を参考に歴史を追っていく。

*12:佛教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。釈迦の死後1,500年以降の時期になるとされ。佛教の効力がなくなる時期とされている。

*13:自分が所属し、寄進している寺のこと。対義語は檀家

*14:移転などによって檀家を止めること

*15:ナショナリズム論の観点から言えば、「日本人」という概念自体近代に生まれたものであるため、ここで日本人と称するのは適切ではないだろう。ただ、他にこれを的確に表す言葉もないため、敢えてこれを使うことにする。仏教伝来以前の大和地方に住む人々というくらいの感覚で捕らえてほしい

*16:荒俣宏・米田勝安 2000 p.64一部改変

*17:ここからも記紀の強いプロパガンタ性が伺える

*18:大日本帝国憲法 第28条にも「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とはっきり書かれている。

*19:ただし、為政者としての天皇制が存続する第二次世界大戦までは、「為政者として臣民の」レゾンデートル保証に大いに効力を発揮したことは言うまでもない。

*20:内村鑑三 1938 p.18

*21:内村 1938 p.19

*22:清沢満之 我信念 参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/001211/card45629.html 閲覧日:2009/1/2

*23:なお、その後高木は平成8年(1996年)に真宗大谷派から除名処分を取り消され名誉が回復されている

*24:終戦後、特に70年代までの日本の方向性については、大澤真幸の『不可能性の時代』を参考にして読み解いていく。

*25:天皇の神性がGHQという人間主体に変わったという反論もあるかもしれないが、国民にとってその変化は特にセンセーショナルなことではなかった。例えば、1946年に俗にいう天皇人間宣言が発布されたのだが、日本人にとってみれば、天皇が人間である(Godではない、Emperorだ)ということは頭で認識していることであり、これは当たり前のことでしかなかったのである。

*26:1968年の内閣府世論調査によると、学生運動の支持者はわずか7%程度だったという。

*27:今でいうリア充<現実世界で充実した生活を送っている者、またそれを追い求めている者>的要素を求めた感覚かもしれない。

*28:この傾向は未だに変わっていないような気がする。

*29:ちなみに、東浩紀はこの概念を踏まえて「ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げるオタクたちの振る舞いは、まさに、大きな物語の失墜を背景として、その空白を埋めるために登場した行動様式であることがよく分かる。」(東 2001 p.44)と「大きな物語」の失墜こそがオタクの生まれた背景にあるとしているのだが、私はむしろ、オタクや全共闘世代、赤軍派(1972年にあさま山荘事件を引き起こした)といった「大きな物語」に属することを嫌った、あるいは素早く見限った人々の増加が、「大きな物語の凋落」を加速させたのではないかと考えている。まあ、卵が先か鶏が先かという論争は、今は重要なポイントではないので置いておく。

*30:不思議と称すべきか当たり前なのか定かではないが、宗教に懐疑的な立場も親和的立場も第3の軸としてのオタク的立場も、この前提だけはすべての識者において一致している。

*31:本田透は『萌える男』の中で、外見の美醜が恋愛できるかどうかを分けると言っているが、よほどでもない限りそんなことは起こりえないだろうと私は思う。ただ、自ら醜く見せようとすることは可能で、そうしている限り美醜が恋愛可能かどうかを分ける可能性はあり得る

*32:ここからの話は本田透萌える男』に詳しい。本稿もこれを参考としている

*33:このあたりのことは大平健 『豊かさの精神病理』に詳しい。本稿もこれを参考としている

*34:最近では適応範囲が拡大し、「客観的に不快感を呈する言動を振る舞う、流行に敏感な女性」を総合的に指す傾向にある。一部では、女性=潜在的スイーツ(笑)とする論調もあるが、これはさすがに言い過ぎであろう。

*35:この消費行動も、本田透が『萌える男』のなかで言及しており、本稿にも例として取り上げた。

*36:もしくは、周囲へのアピール

*37:本論中、最もどうでもいい脚注だが、朝バナナダイエットをするときは、バナナを適量食べ、昼夜もしっかりとカロリーオフすると痩せるそうだ。というわけで、普通の痩身術とそれほど変わらない。例えば、森公美子さんによると、朝食としてバナナを食べる本数が3本から1本に減ったことで、初めて体重が落ちたそうな。そりゃ、バナナ食べるだけで痩せていたら気持ち悪い

*38:今一つの例は清沢満之や高木顕明などの試みである

*39:町田宗鳳 2007 p.151

*40:町田 2007 p.152

*41:ちなみに、駅員がニーチェだと「知っているだろう?」ということになるのだろうか。乱暴すぎる。

*42:林秀彦 2008 p.329

*43:ここも、本田透萌える男』を参考にしている。自己幻想=「萌え」という理論など

*44:本田 2005 p.205

*45:らき☆すた』アニメ版「柊かがみ」の声優

*46:ちなみにこの日は1/11でちょうど鏡開きの日だった。「かがみ(びらき)の日」である。

*47:山村 2008 p.161

*48:山村 2008 p.161